思考のための母語
子どもの宿題の話です。
息子が通う小学校は2年生から自主学習というものがはじまった。
テーマはなんでもいい。勉強する内容は子どもが自由に選んでいいそうだ。
毎週届く、担任の先生からのお手紙には、「今週はこんな自主学習があったよー」と、写真付きで紹介されている。
そこに紹介されたくてたまらない彼は、「どんなことなら紹介されるかな?」と気持ちは結構前向きだ。
だがしかし、、、、?
自主学習、私が小学生の頃もあったと思う。しかし、もう少し上の学年からだった気がする。
だからという訳では無いと思うが、2年生の彼には少し難しそうだ。
まず、どんなことをやったらいいか分からない。
「何をしてもいい」というのは、自分で決める練習でもあるが、自分で決める練習が足りないと、何も出てこない。
ガンダムが好きなら、ガンダムの種類を比較したら?どんなキャラクターがいるのか調べてみたら?などなど、本人の興味のありそうなことからなにか自分からアイデアがでてこないかな?と聞いてみるも返事は曖昧だ。
何回か一緒にテーマを考えたり、はたまた考えなくてもできることをやったりした。
そんな中、最近、ハマっている茶碗蒸しを題材に、自主学習をしてみる?と提案したら、かなり前のめりでやりたいと言い出した。
これは、いいかもしれないと思い、一緒に作ることにした。
元々、テーマを茶碗蒸しにした理由は、あまりに食べたがるので家でも作ったら、盛大に失敗したからだ。上手くかたまらなかったり、味が薄かったり、見た目がイマイチだったり・・・。それを全て食べさせられてきた彼は、「美味しくお店のように作るにはどうしたらいいのだ!?」と興味があったのだと思う。
私も、何度か失敗した上で、「電子レンジはムズいな」とか、「卵〇個っていうのは大小があるし、分量が少なかったのかな」とか、失敗の理由が何となくわかった上で、卵と出汁の分量を変えてみて固まるかどうか理科の実験みたいなことをすればいいのでは?と思っていた。
やる前に、簡単に説明して、なぜそれをするのかは、わかっていたと思う。
分量を測って、あらかじめどのくらいずつ入れるのかを計算してから作った。
卵の分量が固まるかどうかのポイントであることは、分かっていたと思う。
4つそれぞれ卵の分量を変えて作って、固まらなかったものも出てきた。実験としては成功だったと思う。
食べてみて、これはスープじゃん!とか味はまぁ一緒かなとか、感じる差はあったと思う。だがしかし!
まとめるところにきて、何も書けない。
まず、何をしたのかも書けない。
「茶碗蒸しを作った」
「うんうん、そうだね。作ったね。それで、どんなのを作ったの?」
「・・・・わからん」
「何個作ったん?」
「4つ」
「どうして4つ作ったん?」
「・・・・わからん」
どこが分からんのかな、と思った。分かっていたと思っていたのは自分だけなのか?そうかもしれん。だけど、それぞれ違う分量を計って入れて・・・、やってることはわかってると思ったんだけどな。
書くことが分からないとキレる彼を見て、甘えとかじゃなく、ホントに何を書いたらいいか分からないから『分からん』って言っているんだろうと思った。
やることと、やったことをどう文字に起こすのかは別スキルなんだと思った。
自分でもそうやん!ってハタと気づいた。「めっちゃおもしかったー」「この、気づきをなんとか書き留めたい」って思って書き始めても、その面白さの10パーセントも伝わらん文章しか書けんやろ!と思った。
きっと、彼はそういう状態なんや。頭では分かってるけど、文字にできない。それが、今、目の前で起こったことでも、なんとなく差がわかったとしても、その差をどう表現したらいいのかが分からない。
すげーって思った。でもこれって、もう、訓練やと思った。
書けない=ゼロだ。なにか気づいたとしても何もなかったことになってる。もったいない!
だから、とにかく伝える努力をした。そして、それは訓練であり、鍛錬であり、惰性でもなんでもいいから、「とにかくそういうもんだからこう書くんだ!」と伝えた。伝わったかは知らんけど。
だから、一から頭で考えろなんて言うのはやめにした。だって、わからないのにいくら時間かけても無駄でしょう?
そんなことを横でガンガン言いながら、とにかく自分で書かせる。言葉を並べる。
子どもの宿題なのだから、全部子どもにやらせなきゃ、ずるいんじゃない?という誰かにかけられた呪いは無視して、親の宿題だろうが、親のサポート90%だろうが、「どうやって書いたらいいか?」を先に学ぶ方がいいに決まっている。(たぶん)
試行錯誤して、自分だけでたどり着いた結果得られたものってそれはそれで貴重なものだと思うけど、ショートカットの方法も知らなきゃね!
そして、数をこなすことに何より意味がある。
筋トレのように、やりたくないけどやらなきゃいけないことに、崇高な意味なんてない。「考える」というトレーニングは、一生だから。
全然タイトルが回収できていませんが、結局、母語を育てな何も出来ん!とも思った。「母語が使えないと、思考が深まらないってこういう事なんだな」と、しみじみ実感した。
それは、全てにおいて有効だし、生きる糧になる。きっと。
考えることが苦手な彼は、まずは日本語を上手く操れるようにトレーニングが必要だと再認識したのでした。
日本語すらイマイチなのに、英語を(国内で)ガンガンやるのはちょっと違うな、っと改めて感じたvoicyを紹介します。