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この世界の秘密は「解けないパズル」ではなく、「永遠に続くゲーム」なんだと思う

1ヶ月くらい前からボードゲームにハマり、その結果として最近はゲーム理論にハマっている。思えば小さい頃から、軍人将棋や人生ゲーム、ダウト、人狼などのたくさんのボードゲームに囲まれて育ってきた。

特に面白いと思うのは、「3人以上」のプレイヤーによる「不完全情報」の「動学ゲーム」。思えば中高の部活動にサッカーを選んだのも、11人のプレイヤーの協力ゲームとしての側面に無意識に惹かれたからだし、大学で国際関係学に興味を持ったのも、多数の主権国家がそれぞれの思惑を持って駆け引きを行い、最適な決断を下す状況が興味深く感じたからだった。

一方で、一人プレイの「パズル」にはあまり惹かれなかった。もちろん、ある程度はハマったけれど、複数の主体の戦略が絡み合ってナッシュ均衡を探り合う面白さは味わえなかった。

西洋の哲学者の多くは、この世界の秘密を「パズル」とみなしている節がある。例えば「真・善・美」の本質を探求しようとするソクラテスやプラトンは、「真とは何か」というパズルを解こうとする。あるいは、「私はなぜこの世界に存在しているのか」という問いを立て、そのパズルを解こうとする。
どんなパズルも、「最適解」が計算可能である。全能の知を持つ神であれば、そのパズルの答えを一瞬にして見抜くことができる。

だが不思議なことに、この長い人類の歴史の中で、誰も人類の存在の謎という「パズル」を解いたことがないのはなぜか?(仏陀は解いた、という人もいるかもしれないが、それはさておき)、それはそもそもこの人類の存在の謎というものが、「パズル」ではなく、「ゲーム」だからではないか?

「語り得ぬものについては沈黙しなければならない」という結語で哲学という「パズル」を放棄したウィトゲンシュタインは、晩年になって「言語ゲーム」の概念に到達した。彼は「言語」とそれによって生成される「世界」という認識の謎を、パズルとして解くことを諦め、「言語ゲーム」によって絶えず流動的に生成されるものだという描像を掴むことで哲学を次のステージに進めた。

ここでいう「ゲーム」とは、処理速度や操作技術を問う電源型ゲームではなく、複数の主体が相互にお互いの意図を読み合って進行する「カタン」のようなアナログゲームのことを指す。だから、このゲームに全能の「ホスト」や「ゲームマスター」は存在しない。全てのプレイヤーが均等な立場に立ち、不完全な情報をもとにゲームを進めていく。

ただし、さらに言うと、「存在」というゲームの特徴はそのプレイヤーの数が最低でも100人以上(下限については正確にはわからないが)必要であり、さらに我々の意識の奥に深層水として流れる「私」という認識(自我)のあり方そのものがゲームの特性によって規定されているということだ。誤解を避けるために言うと、このゲームの目的は決してよく言われるような「生存」や「種の保存」ではない。ここでいうゲームの主体は外部を持たず内部に複数性を持つ「私たち」であって「私」ではない。このゲームに目的は存在せず、「存在」=「ゲームがプレイされていること」そのものが手段であり目的であるという自己言及的な性質を持つ。

ウィトゲンシュタインの仮説を推し進めるとしたら、そういうことになるだろう。言語が我々の認識のあり方を規定し、その言語自体は言語ゲームによって生成されているのだとすれば、我々の存在は、ゲームの上に成り立っている。もっと言えば、人類の意識は「ゲーム」と共に誕生したとも言える。

人間を特徴づける生物学的機関の一つである「脳」という装置は、「不完全情報ゲーム」としての自然への対処のための特徴を備えている。これは必ずしも、脳の発達によって人間がゲームを始めたということを意味しない。人間が「ゲーム的存在」として覚醒したことによって、脳の発達が促進されたと解釈することもできる。この主張はテレンス・マッケナの「Stoned Ape仮説」、山極寿一の「共感革命」と基盤を共にしている。

こういうことを言うと、「じゃあ私たちの人生の目的は、そのゲームに勝つことなの?」という反応が必ず返ってくるが、存在というゲームの特徴は、そこに「終わりがない」ということ、つまり永遠に続くゲームだということだ。円環が決して途切れることがないように、私たちの「存在認識」のあり方そのものがその円環性に根ざしていることは、東洋の哲学ではよく登場する話だ。終わりがないとするならば、勝ちも負けも存在しない。もちろん、プレイヤーが勝手に設定するサブゲーム(金銭ゲーム、名誉ゲーム、人間関係ゲームなど)においては擬似的な「勝敗」が決定することはあるだろうが、本質的な意味での「存在の勝ち負け」は定義しようがない。なぜなら、「遊ぶこと」そのものが存在というゲームの目的だからだ。

こういうことを言うと、「存在が遊び? ふざけるな、神が人間をもてあそんでるのなんて許せない」という反応が返ってくるが、このゲームを始めたのは他でもない人間であり、ゲームをプレイし続けることを日々選び続けているのも人間なのだ。

そして、この存在というゲームの特徴は、全てのプレイヤーがプレイヤーとして全く平等な条件に置かれているということだ。もちろん先ほど述べたようなサブゲームにおいては圧倒的な不平等が横たわっているが、「存在」という地平で見たときに、一人の人間は一人の「存在」としてしか自己を認識することができないという意味で完全な平等が与えられている。そして、この私という存在の謎を解く鍵は、人間として生きている全ての人間、および過去に人間として生きた全ての人間の手の中に平等に握られている。その「すべて」だけがこの世界の謎への答えたりうるのであり、誰か一人の人間によってパズルのように解かれることはあり得ない。「一人はみんなのために、みんなは一人のために」存在している。そして、「愛」というエネルギーにアクセスすることは、この存在の根源的なリズムに身を委ねることだ。反対に利己的な自我のうちに引きこもるとき、人間は存在のリズムから遠ざかっていく。

世界の謎がゲームとしてしか解き明かせないことは、この世界がこんなにもユーモラスであることの理由でもある。世界は遊びでできているのであって、深刻な表情をしてパズルに取り組む哲学者としての試みを放棄した時にしか、そのユーモアを解することはできない。

上記の考察の結果、私が至った結論としては、もっと愛そう、もっと笑おう、もっと遊ぼう、ということだ。その根底にあるのは、永遠の生命を持ちながらも、本質的に有限な存在としての運命の自覚だ。この存在というゲームにおける「ナッシュ均衡」はそんなあたりだと思うのだが、皆さんの意見はどうだろうか?

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