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仕事の意味ってなんだろう

「仕事なんて生活するためのお金を稼ぐためのもの」-この日本という国で生きる人にとってはごくありふれた仕事観だ。私自身も今から少し前までは、そんな風に思っていた。

3年前に辞表を出した。当時の勤務先へは自分から退職を申し出たので「自己都合退職」として処理された。しかし、事実は妻の転職とそれに伴う家族の引っ越しがきっかけだったので、いっそ「妻都合退職」で処理してくれても問題はなかった。

引っ越し後は妻が正社員としてフルタイムで働くことが決まっていたため、当時7歳と3歳の子どもたちの世話を含め、我が家の家事・育児の大部分は私が担うことになる。一方で妻の転職先での年収は以前と同じくらいだったため、職を失った私の分の給料をカバーできるとはお世辞にも言えなかった。また、保育園に預けられなかった次男は午後2時にはお迎え時間となる幼稚園に通うことになったので、私の取れる選択は限られていた。結果、幸いにも妻の勤務先から在宅でできる事務の仕事を得た。非自発的フリーランスの誕生である。

次男が幼稚園に行っている間は全力で仕事ができる。次男が帰ってきたあとは隙を見て仕事をするものの、その他の時間は家事や子どもたちの世話に消えてゆく。そんな日々をしばらく繰り返すうちに、自身が仕事に対してもっている気持ちの変化に気がついた。

「仕事なんて生活するためのお金を稼ぐためのもの」―かつてはそう思っていた。それは内容は魅力的に見えても金銭的な報酬が乏しく現実的に家族4人の生活を成り立たせることが難しい仕事、給料はそれなりだったけどストレスが強くボロボロになりながらも続けていた仕事など、それまでのキャリアを通じて自身の価値観を規定してしまっていたからなんじゃないかと思う。

ところが、気がつけば仕事を通じてコミュニケーションを取ったり、自分なりの表現ができる喜びを感じている自分がいた。家事・育児に追われながら日々を過ごしヘタをすれば大人と会話を交わすことがほとんどないまま1日を過ごすこともある身にとって、「仕事」は外部との重要な意思疎通の窓口としての役割を担うようになっていたのだ。
 
仕事は自分一人では成り立たない。自分一人ですべて完結するのであれば、それはただの作業だ。他の誰かの欲求を満たしたり、力を合わせて課題を解決することで報酬を得る。この資本主義社会では当たり前となった営みの端っこで私は他者と関わり、自分が成すことの意義を見つけることができた。それまで内心どこか見下していた「仕事」というものにこんな形で救われるとは思ってもみなかった。

もちろん、報酬に見合った成果を出す必要があるのでいつでも有意義だと感じる仕事ばかりを選んでできるわけではない。時には力およばずお叱りを受けることも、明け方まで作業して対応することもある。それでも「仕事」というチャンネルがなければ出会わなかったような人たちと共に働き、時間を過ごす機会を得られるというのは実はとてもすごいことなんじゃないか、と最近考えることがある。

仕事がだんだん軌道に乗り、ようやく家計が安定し始めたころ変化が起こった。報酬の多寡ではなく、一緒に働きたい人たちと社会を良くするために働けるという選択肢=「仕事」が現れたのだ。

その新しい仕事からは金銭的な報酬はほとんどない。だから、以前自分で定義した「仕事とは生活するためのお金を稼ぐためのもの」の要件を満たしていない。家計を支えようと必死だった当時の自分が聞いたらどんな顔をするだろう。

たくさんの出会いや経験を通じて私は変化した。そしてその変化は私の中の仕事観にも波及したのだろう。いま「あなたにとって仕事とは何ですか?」と問われたらこう答えるだろう。「私にとって仕事とは、自分を含めその仕事に関わる人全員の背中を押すことです」と。
不可能かもしれない。でもかくありたいと強く思うのである。

#仕事 #働く #転職 #はたらくを自由に #もぐら会

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