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「フェミニストってわけじゃないけど、どこか感じる違和感について」(パク・ウンジ)を読んで

おもしろかった。日常に埋め込まれすぎてあたかも「常識」のようになってしまっていることが、実は常識でもなんでもないことに気づいてしまったら、それを気にせずに生きることはけっこう難しいと思う。常識やそれを当然としている相手に合わせることはできるけど、もやもやしながら生きるのはつらいから、大事な人にはちゃんと伝えて対話できる言葉を身に着けたい

本書は「言葉にならないモヤモヤを1つ1つ「全部」整理してみた」とあるとおり、淡々と違和感やモヤモヤを言語化していて、そして著者が日々の生活やパートナーとの会話を通じて違和感を理解してもらおうとしている様子、そして、そんなパートナーでさえ真に理解してもらうにはなかなかのハードルがあること、わかりやすく書かれていて、自分の日常にあてはめて考えてみたり、相手に伝える際の言葉を得るために役立つ一冊だと思う。

「フェミニストってわけじゃないけど」

この接頭語をつけないと話の内容に進めないのは日本でも韓国でも同じなんだなと。なんなら世界共通かも。Emma  WatsonもUN Speechでフェミニストを公言したら一気にバックラッシュを受けたと言っていたし、もしフェミニズムっていう言葉に対する心理的ハードルがあるのであれば、別にフェミニストを名乗る必要もない、大切なのフェミニズムが目指すものの内実だって言っていた。わかる。この言葉を使うだけで敬遠されたり謎のレッテルを貼られるくらいなら、この接頭語をつけて内容についての話を深めたい。私も「別にフェミニストってわけではないんだけど…(夫婦別姓って当たり前であるはずだと思うんだよね)」とかよく言っているし、最近は「(夫婦同姓の下で現実に9割女性が姓の変更をしている実態からすれば、これは由々しき問題だと思うんだよね。)…そういう意味では私フェミニストなのかも」みたいなだいぶ持って回った言い方を試してみたりして、フェミニストって過激派じゃないんだよ、素朴なものなんだよ、ということを少しだけ伝えるようにしている。

大切な人に話をするとき、あなたが加害者だって言いたいんじゃなくて、知って共感してもらいたいだけ

大事なパートナーが女性としてぶつかる困難について話をしてきたとき、男性という属性であることによって自分が責められていると感じてしまう気持ち(女性vs男性と受け取ってしまう)はよくわかるのだけど、パートナーである女性が話している理由はそうではなくて、「そうなのか、日常にそんな困難があるのか、知らなかった。それは真に大変なことだ。」と知ってほしいというのがまずあると理解することが大事だなと。責められていると感じると保身(緩やかな戦闘態勢)が先に働き、共感したりや相手の立場を理解するというプロセスに入ることが難しくなる。家庭内の役割分担や実家との付き合い方などのトピックは特にそうなりがちな気がする。でも、例えば、夜間のタクシーに乗るときの恐怖や、家選びで利便性や好みよりも安全性を重視しなければならない苦労などは、話してもらわないと存在していることすら知ることができないので、教えてくれてありがというと思ってほしいところだなぁと。

たとえば、私(女性)も電車なんてない田舎育ちなので、電車で痴漢に遭うということがどこか遠くの話に聞こえたし、心のどこかで「そんなことってあるの?この現代日本で?」と思っていたと思う(否定はしないけど現実の実感もない、ということ)。でも「これからの男の子たちへ」を読んだりツイッターなどで被害者女性の声をきくと、あぁ現実なんだ・・・と恐ろしく思ったし、声をあげられない女性がいてそれがトラウマになることもよく理解できた。知ることで理解し共感できた。でも、男性はここから一歩踏み込まないといけないんだなと思う。自分は痴漢なんてしないのに冤罪になったら困るという保身の方向にまず思考が進んでしまうことも理解できる。また、自分は痴漢なんてしないのに、その話をされると男性であることを理由として責任を追及されているようで居心地が悪いという心理的障壁とかがあるだろう。そして、それが悪い方向に進みすぎると、意を決して声を上げた女性に対して、「嘘なんじゃないか」みたいな、新たな被害を与えることをしてしまうのだろう。

パートナーの女性が話をしたいと思ったとき、あなたがあえて女性を傷つけることをしない人であることは知った上で、(自分だけが耐えればいいやという形の解決ではなく)フェアでいい関係を築きたいという思いで話をしているのだという心理的安心をもって対話に臨んでほしい。そしたら、建設的な対話に進みやすいと思うので。女性だって気づかずに生きている人はたくさんいるような日常への埋め込みがあちこちにあるのだから、容易ではないけれど、シャットアウトしてしまって聞く耳持たずでは、関係は築けない。

女性だからってジェンダーギャップに気づいているわけではない。学ばないとわからないことがたくさんある

セクハラ研修について話していたときの流れで、友人(女性)が、「セクハラも、パワハラも、マタハラも全部経験したし、うまく受け流すことはできるけど、削られるよね」っておもむろに言っていて、根深いなぁ、と実感した。友人自身も、セクハラもパワハラもマタハラもフェアじゃないことはわかってる。でも、これらは社会構造に深く根を下ろしていて、「セクハラ受けるくらいが女性として魅力的ってことだよ」みたいな感覚とか、「妊婦は働けないのだからその分違う扱いを受けても仕方ない」という不合理な合理化とか、いろいろあって一筋縄ではいかない。それを変える労力を考えたら、自分が受け流す術を持つ方がずっと楽だし、日常生活だけでも忙しいのだから、他人との間でいちいち正義のために戦っていられない、というのが無難な対応ということになる。

だからこそ、社会構造上の多数者であり被害を受けずに生きられてしまっている男性が「セクハラ、マタハラだなんて言ってたら、しゃべれなくなっちゃうよ、あはは」みたいなことではなく、身近な女性が受けている心理的・身体的負荷はどれほどのものかということに思いを至らせてくれると、社会が変わりやすくなるんだろうなー、と思う。

私も恥ずかしながら「夜道を歩く女性は気を付けましょう」という啓蒙に自分から疑問を抱くことはできなくて、「これからの男の子たちへ」を読んで、女性に自衛を促すのではなく「性暴力はいけない」という風に加害者側を取り締まらなければならないということを教わって、ほんとにそうだわ!!と思った。女性がどんな服装でどんな時間帯に歩いていたって襲ってはいけないのは当たり前だ。でも、女性の私ですら(夜道の危険を感じたことがないことも手伝って)そんな簡単なことに気づくのに他人の手を借りている。自分が経験していないことを想像することは難しいのだけど、もう知らないで生きていることは難しいし、知ろうとしていく努力が必要だと思う。

そのために「これからの男の子たちへ」「フェミニストってわけじゃないけど、どこか感じる違和感について」(カップルの日常に潜むジェンダーギャップがよくわかるし、著者がパートナーと対話している内容を書いているので実践的かも)は、日常に落とし込んだ内容を書いてくれているので、本当に気づきが多いです。ぜひ気軽な入門書として読んでほしいなぁと思います。

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