「天才陰陽師の恋、夏休み編」
花火と手作りの弁当がボランティアから配布され、小さな市民会館の庭で夏を楽しんだのは、もう遠い思い出だった。あれから十数年、痩せ細っていた孤児院育ちの彼は、今や国内最強の、陰陽呪術師として成長していた。
「安倍くん、こっちも写真一緒にいいかな?」
「…………、ああ」
はあ、ウンザリだ……。俺はこのクソ暑い八月の盆休みに、こんなところで
低脳丸出しな女達と、アホみたいな衣装を着て何やってんだ……。
生肉を足下のアスファルトに置いたら、一分弱で見事なミディアムレアステーキが焼き上がるだろう。
一番紫外線が厳しい昼過ぎの屋外、東京湾がすぐ向かい側に青々と輝いている。
いわゆる、コミックマーケットと呼ばれる世界規模のマンガイベント。
18歳になる安倍晴明は、呪術高専東京校の勧誘サークルの一員として半強制的に参加させられていた。
毎年の文化祭さえ碌に顔出しをしなかった彼が、この過酷な夏の大祭に駆り出され、文句も言わずに蒼い狩衣に長高い烏帽子を被って人寄せパンダと化しているのには理由がある。
『なんせ、優秀な弟弟子さんには俺と夏休みを丸々交代させてやったもんなぁ。それなりの報酬は払ってもらわないと』
iPhoneの向こう側で、関西京都校から連絡してきた兄弟子のニヤニヤ顔が
浮かぶ通話。
……ちくしょう……、最高級の餌で俺を釣りやがって……。
三つ年上で、同じ都内の有名音楽大学に通う源博雅と正式に交際を始めた夏、
まだ学生であるにも関わらず、既にヨーロッパでは有名な「東洋の天才演奏者」として音楽活動に多忙な恋人に、初めて軽井沢の別宅に誘われたのだ。
修行生である晴明には、丸々二ヶ月半の夏休みが確約されている。
地方から上京している苦学生の多くはバイトに勤しんだり、実家に帰る者が多いのだが、呪術高専陰陽師養成校設立以来トップの優等生には、後見人兼師匠である賀茂忠行に生活費の全てを保証され、既に両親は他界し天涯孤独の身の上である。
今年も、十代のほとんどを過ごした京都にて修行一人旅をするか、思い切って
中国の奥地やインドへバックパッカー放浪をするか。ダラダラと決めかねていたところへ。
「晴明、もし暇ならうちの別荘に来ないか?」
「俺は一ヶ月のバカンスを取れるんだが、二人だけで過ごせるぞ」
初恋の相手からそんな甘い誘惑を受けたら、二つ返事で了承する以外にどうしろと。
兄弟子と京都校への研修管理を交代してもらう条件が、この夏コミケでの
コスプレ勧誘だった。普段は学校行事に全く参加しない美丈夫の優等生に、
若い女性達がここぞとばかりに群がって話しかけてくる。
「あの、あの、ツーショットいいですか?」
「去年までいらっしゃらなかったですよね? 高専の生徒さん?」
「……触らないでくれ」
「あっ、ごめんなさい! あの、ウチら京都の女子部なんですけど、この後って
アフターに……」
胸元や足の付け根の素肌をこれでもかと露出させた、派手やかな衣装の同世代らしい少女達が、許可もなく腕や肩に触れてくる。
そうでなくとも、ATフィールドを敏感に展開している晴明の限界領域がヒビ割れの音を軋ませ、鼻奥に残る甘ったるい匂いが神経を逆撫でした。
「おい、いい加減に……」
「……晴明?」
まさか、ここで聞こえるはずのない音域高いテノールが、蜃気楼のように熱波を
燃え上がらせる騒音溢れる屋外で、鼓膜に届く。滴る汗も気にせずに振り返った視界の先には。
「博雅?」
「えっ、あれ? お前、どうして?」
「……お前こそ」
「うわ、晴明、めちゃくちゃ似合ってるな……」
「…………そっちこそな……」
成長期をほとんど終えた晴明だったが、身長は185cmを超えてもまだ
少しずつ縦に伸びている。そんな青年陰陽師より、いつも目線が15センチは低いはずの源博雅が、10cmはあるだろうヒールを履き、更にライトグリーンの長い
ツインテールウィッグを高く結い上げて、呆然と年下の交際相手を眺めていた。
……アニバーサリーバージョンの、初音ミクのコスプレ姿。
ブワァッと血圧が急上昇した次にはクラクラッと、安倍晴明の視界が歪んだのは40度近くに燃え盛る気温のせいだけではない。
女性相手には1ミクロンも反応しなかった若い性欲がグッと喉に競り上がって、
自分でも皮膚が一気に赤面するのがわかる。
疑問や苛立ちの何もかもが頭から蒸発し、ご丁寧にブルーのマニキュアを
塗られた手を握って、会場の奥へ二人で足早に駆け込んだ。
「……驚いたなぁ、まさか晴明がコスプレ会場にいるとは」
「そのまま返す。お前……、今日までオケコンの本番じゃなかったのか……」
東ホール外に立地している、「コミケ開催中、選ばれし精鋭スタッフが集う」
ベローチェカフェで冷たいカフェラテとソフトクリーム黒糖オレを購入。
音大サークル側のスペースに腰を下ろして一息つくと、自分の脳下垂体がどれだけ熱くなっていたか痛感した。
ちなみに外での飲食の場合、「社会人だから、俺が出す」「自分の分は自分で払う」という面倒臭いやり取りを避ける為に、それぞれが割り勘でペイするという
契約が成立している。
そろそろ入場規制も無くなり、ほとんどの買い物や用事を終えた一般参加者が
帰りのバスやりんかい線、ゆりかもめ駅へ大量に流れ去っていく時間帯だ。
早朝から大勢の緊張感と興奮に張り詰めていた会場にも、緩やかな談笑が広がり
穏やかな風景が広がっていた。
これから実家にそのまま帰る面子もいれば、久しぶりに顔を合わせた地方住みや、海外の友人とのオフ会へ抜けていく人々もいる。
ほとんどが汗だくで疲れ切っているが、それでも晴れやかな笑顔だ。「また冬に!」という挨拶が、所々から聞こえてきて微笑ましい。
晴明も博雅も、現地集合した仲間との打ち上げが嫌々控えているのだが、
お互いまともに会話したのは10日振り。どうにも離れがたく夕暮れに染まっていく海を遠目に、会話が尽きない。
「オケは一昨日で終わったよ。今回のこれは、あ〜……、大学のボカロサークルの
スペースアピールだったんだ」
「だからって、なんで博雅が……。有名人にそんな格好させるなよ……」
「俺も、ちゃんと見栄えのする女性の方が良いと言ったんだけどなぁ……。
このシーズンは海外のコンテストや、弦楽器の結婚式演奏も多くて人手不足らしい」
脱毛サロン、なかなか面白かったぞと笑っている呑気さに、怒る気力も
萎えてしまう。確かに、大きな瞳にグリーンのカラコンを入れてガッチリUVメイクした博雅は、元々の目鼻立ちもあって十分に可愛らしかった。
透き通るように白い肌に、ブルーとグリーン、パープルのグラデーションを
基調にした膝丈衣装もよく似合うし、キュッと引き締まった腰回りから脚のラインがなんとも艶っぽい。
「その胸はどうなってるんだ、詰め物か?」
「これか? ふっふっふ……。最近のシリコンは凄いんだぞ。走っても全然崩れないんだ」
触ってみるか?と無邪気に肩を寄せられて、この野郎、いっそここで食い尽くしてやろうかと思う。
俺以外に、生足なんて見せてるんじゃねぇよ。
どれだけネットで拡散されているんだ、こいつの写真……。
背中をぐっしょり濡らす汗と、そろそろ鼻についてきた自分の体臭にイライラが増してくるが、手の中のバイブに怒りを削がれた。
「悪い、晴明。これからそこのグランドホテルで打ち上げなんだ。お前は帰るだろう?二時間くらいで上がるから、夜にアパートへ行っても良いか?」
「そのつもりだったが、博雅。うちの高専とお前のサークルが合流してるぞ」
エッ、と翡翠色のカラコンを大きく見開いた博雅に、晴明が自分のiPhone画面を
見せる。送られた写真の中では、数人の平安陰陽師とボーカロイドキャラ達が、
赤く日焼けした顔をにこやかに並べていた。
「ここって……、会員制の貴族ホテルなんじゃないの?」
イベント直後の興奮が抑えられず、はしゃいだままに東京湾を一望する
ホテルに足を踏み入れた途端、晴明を除く数人の陰陽師高専の生徒達は、瞬時で沈黙に包まれた。
五階分吹き抜けている玄関ロビーでは、明らかに上級貴族であるだろう仕立ての良いスーツやオートクチュールのカクテルドレスを纏った男女が、こちらを冷ややかに眺めている。
高専の生徒はほとんどが地方の貧しい出自で、三ツ星ホテルなどに足を踏み入れた経験がない面子ばかりだ。
「な、なんか……、場違いな所へ来ちまったな……」
「ねぇ、奢ってもらえるんだよね? アタシ、お金ないよ……」
そんな戸惑いを割くように、ホール奥から小走りで駆け寄ってきた長身が
片手を上げ、にこやかに合図を送る。
「おう、博雅! 久しぶりだなぁ!」
怯えきって尻込みを始めた同期生や後輩に、内心ため息をついた晴明は
入り口で博雅を迎えたその紳士を、足元から髪型まで冷静に観察した。
直系の皇孫であり、現帝お気に入りの甥である恋人を名前で気軽に呼ぶなど、
只者ではない。
途端に、博雅も他人向けではない笑顔で返す。余程親しい間柄のようだ。
「敦見殿、今回はご招待をありがとうございます。ゲストが参加して
くれることになったので、よろしくお願いします」
「ああ、呪術高専の生徒諸君だろう。今日一日、暑い中疲れたよなぁ。
みんな、好きなものを頼みなさい。未成年にアルコールは出せないがね」
ラフなスポーティシャツにグレイのスラックスを着こなした彼が、
緊張に青ざめている学生達に微笑むと、爽やかに安堵の空気が広がっていく。
晴明は幼い頃から師匠賀茂忠行に連れられ、多くの貴族邸宅やその別荘地、
企業家財閥の支配制度を見てきた。
大抵の支配階層は低級貴族である陰陽師を見下していて、人間扱い
されないのが普通だ。
しかし、源博雅やこの敦見という人物は珍しく陰陽師高専の生徒にも
「親切で分け隔てなく穏やかだった。金銭的に不自由したことのないノーブルさが、博雅と同じ生来の裕福さを感じさせる。
「こちらは、私の音楽の師匠で従兄弟の敦見親王です。高専の方々は、地下に天然温泉もありますし、お料理が準備される前に汗を流したらいかがか?」
一番年齢の近い博雅がにこやかに提案すると、場が一気に柔らかくなって
「……じゃあ、お先にお風呂を……」と数人がおずおずと手を挙げる。
「博雅はこの子達を案内してくれ、払いは私に。ああ、君はこちらへ。
安倍晴明くん?」
呼び止められた晴明は驚いた顔をする博雅と視線を重ねてから、ゆっくりと
敦見と向かい合う。
「あの、敦見殿?」
「いいよ、博雅。この人は俺と話があるみたいだ」
「いや、でも……」
「博雅、先に行きなさい。大丈夫、彼を虐めたりはしないよ」
「いえ、そんなことは……」
「大丈夫だから、博雅。みんなを頼む」
まだメイクしたままの可愛い顔で少し迷っていたようだが、晴明の意図を察したらしく、
博雅はそのまま学生達とエレベーターホールへ去った。
無言の合図が瞬いて、初対面の二人は窓際のソファ席へ腰を落とす。
「それでは改めて、敦見です。博雅とは遠縁でね。よろしく、安倍晴明くん」
「博雅公から、お話はかねがね伺っております」
「何か食べるかな?」
「いいえ、アイスコーヒーをお願いします」
「では、私も同じく」
ボーイにオーダーする晴明にも引けを取らない長身に、甘いルックス。
両眼の下に印象的なほくろが並ぶ、これはいわゆる……。
「敦見様は、世捨て人の相が出ていらっしゃられる」
「うん? 世捨て人? さすが若き天才陰陽師だな。
そうか、わかってしまうものなんだな」
柔和な表情とインテリジェンスな声に騙されがちだが、
こういう特別な相を持つ男や女というのは、貴族社会や貧困層無関係に時々いる。
自分の才能が足らず届かなかった憧れや夢へ、いとも簡単に飛翔する者への
嫉妬を笑顔の仮面の下にひた隠しにしつつ、さも平凡な温厚さを演出しているタイプだ。陰陽寮にも憎悪を激らせながら、首席トップの晴明を隙あらば蹴落とそうとする連中が大勢いた。
「博雅の音楽センスを最初に見出したのは私でね。弦楽器も笛もピアノも何もかも、あっという間に追い抜かれてしまったが、あれはあの通り優しい子だから。
いまだに兄とも叔父とも慕ってくれるんだよ」
「残酷な優しさが世界にはあると、俺も教えられました」
「その割には、君も優しく甘い顔をしているね。嫉妬を知らない天才同士、
理解し合えるのかな?」
それはどうだろう、晴明は博雅との関係を「天才同士」と捉えたことは一度も無かった。
確かに自分は、他の人間が持てない絶対的な支配領域を持ち、陰陽師としても呪術師としても天文学の専門家としても、凡庸とは真逆の高みに君臨している。
だが博雅は神の音楽センスだけではなく、誰をも魅了する脅威的な未知の魅力を秘めているのだ。
欲望に汚染された人間を改心させたり、ましてや誰彼構わず、野辺に咲く一輪の花にでさえ共鳴し涙を流して地上を潤すなど、陰陽師風情にはとてもできない。
「惨めな私にもまだ、一応年上としての役割が残っていてね。最近、君の話ばかりするあの子を帝がとても心配していらっしゃる」
「それは、畏れ多い」
やはりその話題だったか。博雅はけして口に出さないが、師匠である賀茂忠行から「帝が、お前と一度お会いしたいと申されておる」「博雅様の件で」と、釘を刺されたのは先月。いよいよ調査が入ったか。
「敦見様には、保護者面談でわざわざおいでになられたのですか?こんな青二歳の、たかだか陰陽呪術師風情相手に」
「失礼致します」
運ばれてきたアイスコーヒーがカラカラとさざめくのと重なり、敦見もまた喉の奥で笑った。
「いや、博雅に聞いた通りだ。安倍晴明は、常人を風雷のように流流と捌き、水竜のように一閃すると。俺達のような世間知らずは煙に撒かれてしまうとね」
「少なくとも、私は博雅公に対して常に真摯であるつもりです。あのお方に、一度として偽りの気持ちで接したことはありません」
上質なロースト豆で挽かれたコーヒーが、淡い苦味を鼻腔に残して血液に
吸収されていく。この身体の奥深くに、源博雅が既に細胞レベルで浸透しているのと同じく。
「おそらく帝も敦見様も、私の出自や過去の火遊びについて、重々ご精査されたのでしょう。確かに、私は楽神の神子に程遠い下賎の出です。しかし博雅様の隣にあるべく日々、自己研鑽を怠ってはおりません。何かあれば、この命に替えてもあの方を御守りする所存でおります」
「……博雅と、生涯添い遂げたいと願っていると?」
「おっしゃる通りです」
ふむ、と長い脚を組み直した敦見は、美しく整えられた爪先で名刺ケースから一枚、優雅な仕草で上質なカードを捌き出す。源博雅と同じく労働を知らない、楽器を弾きこなす為に構成され社交界を生きる指だ。
「……君は、博雅から聞いていたイメージとは少し違ったよ。あの子は、全く自分とは正反対の冷静沈着さで、一を察して千を見透す聡明な男だと評価していたが、君らはとても似ている」
「似ている? 私と博雅様が?」
「ああ、二人共に誰かを嫉妬し鬼に変わるようなことがない。ある意味人生を達観し、それでいて私欲を持たず自分に厳しい。君ならば、博雅を命懸けで支えてくれそうだ。私と違ってね」
会話の終了を察した晴明は、敦見に合わせゆっくりと席を立った。
「何かあれば、いつでもそこに連絡をくれ。留守録にメッセージを残せば、
折り返すから」
「帝に、どうぞよろしくお伝えください」
「まあ、身辺には常に気をつけたほうがいい。あのお方は私よりも遥かに博雅を
甘やかしておられる。万が一があれば、君の命に関わるだろうから」
「安倍晴明、肝に銘じておきます」
「頑張りなさい、二人でね」
優雅な後ろ姿がロビーから消えると、軽く伸びをし晴明はソファ席に座り直した。
「宮内省、特別諜報室長、兼相談役……。俺みたいな雑種のお目付けにしては、いくらなんでもセレブ過ぎるだろ」
さて、果たしてこのカードを使い日は来るのか。それは晴明自身にもまだわからない。何せ源博雅と巡り会って以来、人生が予想外の方向へ二転三転しているのだから。
「晴明!」
「博雅、風呂に入ってきたのか?」
カフェテラスに並ぶ数人のボーイが頭を下げ、帝のお気に入り御曹司を迎える。
既に化粧は落としていて、汗を綺麗に流した博雅の身体と髪から放たれるのは、
清涼感の強いハーバル。
ウェーブの強い癖毛がまだ湿って長く頬を伝い落ちているところから、急いで入浴を終えたらしい。
「な、何か敦見殿に叱られたりしたか?」
「可愛い弟に手出ししたら、タダでは済まさんとさ」
「まさか、そんなお方ではないよ」
「知ってるさ、もっと恐ろしい男がお前をいつも監視しているらしいから。
……お前、何か食ったか?」
レモンイエローの半袖Tシャツに、ロールアップデニム姿でローファー靴を履いた博雅は、まるで高校生のように幼く見える。晴明が連れて行って案内した表参道のユニクロで揃えた上下は、彼が着るとハイブランドにさえ感じられた。
「まだだよ、なんだか気になって……。晴明は?」
「俺もさすがに腹が減った。部屋風呂に入ったのか?」
「あ、俺は皇族専門の地下大浴場だ。案内させよう」
「頼む、高専の連中とはここで離れたいんでね」
「じゃあ一時間後に最上階のラウンジで待ち合わせだな。中華かイタリアンどっちにする?」
「中華で」
「うん、ここの海鮮炒飯と海老は美味いぞ。俺はサークルのみんなに挨拶して来るから」
「博雅」
iPhoneを確認しつつエレベーターホールに向かおうとする薄い背中を、軽く長い腕で包み込むと、瞬時に周囲を見渡してから唇に唇で触れた。
「せっ、晴明……っ」
「アポ無しの保護者面談に付き合わされたんだ。これくらい安いもんだろ」
「ば、馬鹿ッ、いいな、一時間後だぞ?」
「わかったって」
今更なんだ。あの兄貴分が俺に取調べした時点で、宮内省のお偉いさんは、俺達の関係に気付いてる。
しかも今夜はセミスイートで一泊、バレバレだろう。
「さてと、王子様との夜に備えて、俺も全身を磨き上げてくるか……」
博雅が一人で浸かったらしい皇族専用の大浴場には、東京湾が視界いっぱいに広がっていた。
外側からはけして見えない特殊建築になっているが、オレンジに点滅する屋形船が行き交うパープルグラデーションの夜景は見事の一言。
おそらく、帝やあの敦見と一緒に博雅は何度も同じ眺望を眺めたのだろう。
肩までの美しい黒髪を素早く乾かして、アメニティに並べられたメントールライムのボディローションをまとう。
不思議なことに博雅と同じトワレを使っても、決して同じ香りにはならない。
生まれついての体臭の違いなのだろう。まるで、二人の境遇そのままのように。
クリーニングボックスに汗で濡れたシャツとブラックデニムを放り込み、「安倍晴明様」とメモが置かれたブランドショッパーを開く。
「あいつ……」
ブルーの不織布に包まれていたのは、コレド日本橋でデートした日に「これは、お前によく似合うな」と博雅がマネキンを指差した蒼いコットンシャツと黒のワイドパンツ。
ヨージ・ヤマモトの新作プレタポルテは肌触りが良く、映画が終わったら
買いに戻るつもりが、豪雨に降られ慌ててタクシーに飛び乗ってしまった。
揃いのソックスとエナメル靴まで用意されていて、これは多分。
「……保護者面接の慰労ってやつかな」
中年から高齢者の貴族が多い皇室御用達ホテルで、185cm九頭身のスタイルを
誇るスレンダーな美丈夫が歩くと、途端に女性客が色めき立つ。
「どちらの御令息?」
「知らないお顔ね……、留学帰りかしら?」
「先ほど博雅公がおいでになられたから、お友達ではなくって?」
「素敵ねぇ……」
スタッフでさえあからさまな視線を投げかけてくるので、完璧に作り上げた
他所行き顔で微笑んで魅せると、「まあ」と白髪のマダム達は慌てて礼を返してきた。飢えも寒さも知らない、温室の中の世界だけで生きている人々。
まさかランウェイを歩くように過ぎ去る男が、かつては孤児院に捨てられた施設育ちの陰陽呪術師だとは、誰も考えまい。
「博雅、待たせたな」
英国支配時代の香港に老舗を持っていた中華料理店の一番奥、特別仕様の個室に晴明が現れると、一瞬ポカンと口を開けた源博雅は頬を染め、
「うん、とてもよく似合う」と視線を逸らせた。
さすがにSNOOPYのプリントTシャツは憚られたのか、広いテーブルを前に
座る小柄な背中には、コム・デ・ギャルソンの白いカーディガン。
サマーウールのそれが、ミルク色の肌をより際立たせている。
「服と靴、ありがとうな」
「いや、敦見殿が部屋と食事代金を出してくださったのでな。せめて何か
礼をと思って」
「正直、疲れたよ。夏のイベントよりしんどかった」
「また、そんな嘘を。お前があれくらいで緊張なんてするもんか」
「ふん」
チャイナドレスの女性達が、チラチラと清明の顔を盗み取りしつつ前菜や
ワイングラスを並べていく。博雅は何か言いたそうに正面の端正な面差しを
見つめているが、晴明は遠くに輝く夜景に囚われたふりをして無視を決め込んだ。
「こちら、シャトー・ムートン・ロートシルトの白、2008年物になります。
他にもデキャンタなさいますか?」
「いや、まずはこちらだけで。しばらく人払いをしてくれ」
「畏まりました」
壮年の男性ソムリエがゆっくりとワインをグラスに注ぎ、一礼し退出する。
「さすがに、帝お気に入りホテルだな。俺も色々な貴族の常宿を覗いたが、
ここは格が違う」
「このホテルはな、思い出がたくさんある場所なんだ。両親の結婚式会場だった」
「へえ、本当か」
「俺の烏帽子祝いや成人の儀もな。だから、お前と一緒に泊まりたかったんだ」
すぐにでも微笑む楽天使に食らいつきたかったが、焦ることはない。 これから二人だけの、濃密な時間が始まるのだ。
うん、と軽く咳払いをした音楽の天才がグラスを掲げて、若き陰陽呪術師も続く。
「じゃあ、えっと……。安倍晴明の健康と繁栄を祈って」
「源博雅に、長寿と楽神の祝福を」
「乾杯」
「乾杯、」
さすがに五大シャトーとあって、口に含んだ瞬間から葡萄の芳醇な香りが鼻腔と
胸いっぱいに広がった。
口当たりは爽やかだが、何十年と寝かされた果実特有の深みが二人を唸らせる。
「うん、美味いなあ」
「今日は喉が渇いたし、まわりが早そうだ」
「ゆっくり頂こう。俺はデザートの杏仁豆腐まで辿り着くぞ」
「博雅と中華は久しぶりだよな」
「東銀座で歌舞伎を観た以来か。一年は早いよなぁ」
それからは、離れていた十日間についてお互いの情報交換。
晴明は師匠である賀茂忠行との同行任務に次いで、最近は兄弟子との
ツーマンセルが増えている。社交界の闇を覗いては欲望の汚濁に辟易するが、
恋しい皇孫の隣に肩を並べる為には、彼らを相手に日々立ち回らねばならない。
博雅も、ヨーロッパとアメリカの有名なオーケストラと共演が続き、その合間に作曲活動に追われ疲労していた。
「成田へのファーストクラスで、偶然旧友と会えてな。一年振りかなぁ、
ゆっくり話せて懐かしかった。お前によろしくと」
「誰だ? 俺を知っている男か」
「龍笛葉二の、昔の持ち主だった演奏家だよ。世界を転々としているから、
あんな場所での鉢合わせは本当に珍しいんだ」
「あの笛の持ち主か……」
葉二、と名付けられた平安雅楽の古い横笛は、この神童音楽家しか奏でることができない逸品で、肩時も手放さない護り刀のように、源博雅のそばにある。
先ほどの保護者の顔が、晴明の脳裏に浮かんだ。きっと彼も、この純真無垢な才能に自尊心を砕かれてきた者なのだろう。野心を持たない故に、可愛さ余って
憎さ百倍というところか。
「彼は、自分の過去について全く語らないんだが、ラテン系の容貌で背が高くて
……そうだ、まさにお前と対になるような色男だよ。
色々な国の混血らしく肌が褐色でな。瞳が金色でそれは美しい、野生の豹みたいな雰囲気なんだ」
「ふぅん……」
「まあ、また紹介できる日も近いよ。年末に二人でコンサートを
開く約束をしたから」
素晴らしいセンスの持ち主だと嬉しそうに微笑む想い人に、「そういうところだぞ」とは北京ダックの咀嚼で飲み込む。
目の前に肉体関係を持つ男といるのに、まだ自分がたくさんの男女から
食指を伸ばされる対象だとは、少しも理解していないのだ。
保護施設で大勢と雑魚寝をしていた頃、いつも晴明を目の敵にして虐める年上組が空腹に耐えかね、森近くの畑の作物を盗みに深夜出て行くとしばらくして、残った女が誰かしら幼い晴明の布団に忍んでくることが多かった。
母親や姉役を気取って、いかにも母性本能を全面に押し出しつつ、性的に
求めてくる姿はおどろおどろしく、グロテスクな醜悪さそのもの。
十歳になるまでは、グネグネした脂肪の塊に吐き気を覚え逃げ回ったり、
噛みついて暴れたりとにかく拒絶し続けたが、精通を迎えてからは
「寄ってくる魚を食い散らかしても、罪にはならないだろう」と試食してみることにした。
ドブ川に泳ぐ生魚の体臭さえ我慢すれば、性欲溢れる十代半ばの男には
手軽なファストフードだ。しかし同じ女と何度かセックスすると、全員が恋人面をするようになり、しまいには晴明を巡って醜い争いを起こすようになった。
その頃にはすっかり身長も伸び、既に痩せ細った哀れな孤児ではなくなっていたので、華やかな容貌と反抗的な態度から、問題児として地方の施設を転々と
たらい回しさせられる羽目になる。
これが後々、安倍晴明の知見を広め陰陽師としての体験値をも深めてくれるのだが、まだ成長途中の少年の孤独は、より深い傷跡として心奥に残った。
賀茂流陰陽道の大物、賀茂忠行との出会いは本当に偶然だ。あの邂逅が無ければ、無名の孤児が皇孫である源博雅と顔を合わせる機会などあり得なかった。
だから、師匠には心底感謝はしているのだ。
毎日三食の食事と、清潔な布団と衣服を与えられ基礎学力をつけてくれたことも、当然恩義は感じているが、心の奥底では「いつかは、離れていく大人」として冷めたまま距離を保ち続けた。
しかし陰陽呪術高専に入学しなければ、晴明が博雅と出会いはあり得なかったし、彼から生きる喜び全てを与えられたのは、まさに奇跡だ。
上級貴族であり有名な音楽家でもある源博雅は、交流関係がとにかく広い。
人当たりがよく物腰穏やかで親切な上流階級は希少種だ。
彼はどこでも衆目を浴びて目立ったし、握手を求められたら常にそれへ笑顔で応える。晴明にとっては、理解も我慢もできなかった。
そうでなくとも身分の差が大きく二人の間に横たわっているのに、顔も名前も知らない男女が下心を隠さずに博雅に触れようとするのだから。
その時にはとっくに、彼への想いは親友の枠を大きく外れていたと思う。
「俺を、利用すれば良い。社交界には顔が知れているし、帝との仲介役にも最適だろう」
のんびりと宣う音楽の神に多くを引き渡すのは諦めているが、自分以外の人間にこれ以上彼の分前を与えるなど、耐えられない。
驚いたのは、博雅の自己評価の低さだ。世界中の聴衆をその演奏で震えさせる
才能を持ちながら、彼は「自分には、音楽しか能がない」と頑なに信じ込んでいる。しかしそこで、強く反論すると同情されているのだと誤解していつもおかしな方向に感謝されてしまう。
「ご馳走様でした」
宣言通り、博雅はきっちりとデザートの杏仁豆腐アイスクリームを平らげ、
暖かなジャスミンティーで二人はディナーを終え、部屋へ向かった。
ダイニングの出入り口から、セミスイートへの専用エレベーターホールには
この暑い中、黒服をきっちり着込んだシークレットサービスが数人、屈強な体格で無言を貫く。
おそらく盆休暇期間なので、他にも高名な貴族や政治家が宿泊し、密談を
交わしているのだろう。
二人が今夜眠るセミスイートルームには、ライトアップされた温水プールが設置されている豪華さだったが、博雅は慣れた迷いのない足取りで洗面所へ向かい、手を洗ってからキッチンへ移動。
「緑茶でいいか」
「任せる」
育ちの良さからなのか、博雅は必ずプライベート空間で話す前に飲み物を用意する。
晴明は常に寛ぎを与えてくれる存在の気遣いに、最初は新鮮な驚きを抱いたが、
こうして他人同士が、少しずつ家族へと構成されていくくすぐったさを知って
純粋に嬉しかった。
「明日の朝、泳ぐか? お前に一度も競争で勝てたことがないよな」
「恥の上塗りをしても良いのか、博雅。手加減はしないぞ」
「ちぇ、言ってろ。あ、向こう側に大きな船が停泊してる。……どこの国旗かよく見えないな」
「確か、英国からクイーン・エリザベス二世号が横浜に向かっていたはずだ。一昨日の客が乗り込むらしくて、誘われた」
「本当か! あの船内のホール音響はなかなかなんだ! そうか、クルーズライブもありだな……」
お前、俺が自分以外の誰かと豪華客船に乗る想像はしないのか?
追求するのも疲れて、少し冷めた緑茶を一気に飲み干すとそのまま、セカンドベッドルームへダイブする。上質な重いデュべに身を任せると、喉の奥に玉露の香りが広がっていく。
ガラスの茶器が風鈴のように鳴って、主賓が自ら洗い物をしているのだと分かった。
「疲れた……」
陰陽師修行を始めてから十数年、過酷な環境下で修行を重ね、如何なる厳しい土地でも屈しない精神と肉体に磨きをかけてきたが、今日は精神面でもストレスが重なって酷い暑さもかなり堪えた。
目を閉じて深呼吸をすると、上品なアロマオイルの香りを泳いで、愛しい気配が近付いてくる。
「晴明、寝たか?」
「……起きてるよ」
レモンイエローのTシャツを着て小首を傾げる仕草には、媚びも汚れた誘惑も全くなく、逆に幼さが溢れる背格好に、晴明は薄暗い背徳感を覚えた。お互い、明日からは完全なオフだ。この楽典の神子を独占できる。
「ん」
「ん?」
ベッドに寝転んだまま、晴明が左腕を広げる。無言で求めると、やっと博雅は理解したらしく、そろそろと長い腕の中に滑り込んできた。
きっと、この優しい身体は安倍晴明の為にだけ造られたのだろうと思い上がるくらいに、ピッタリとジャストフィットする体温。
「晴明、俺はもう寝そうだよ」
「わかってる、二人でこのまま眠ろう」
素足を絡ませ撫で合わせると、頬を赤らめた年上の恋人の呼吸が乱れる。
「……言ってることとやってることが、全然違うみたいだ」
「いいだろ、十日振りの博雅だぞ。あんな生足晒しておいて、いちいち処女みたいに騒ぐなよ」
「しょっ、ショジョって!」
「ああ、悪い。俺が全部ご馳走になったからな。ファーストキスだって」
リップノイズを弾けさせて、二人の唇が何度も軽く触れ合う。この呼吸も、背中と肩に腕を回す所作も何もかも、晴明がじっくりと博雅に教え込んだものだ。楽器しか触れたことのない唇や舌や肌、そして彼の親さえ知らない奥深い場所も暴き、好みに仕込んだ。
「……ん、晴明っ、と、トイレに行くから……」
「準備は俺がするから、お前は寝ても構わないよ」
「寝られるわけ、ないっ……だろ!」
上に乗る博雅からカーディガンを素早く腕抜きさせて、Tシャツの腹から胸にかけて大きく撫で上げると、「んんう」と、堪らないように鳴き声が溢れる。
滑らかな瑞々しさが、二人を引き離していた時間の長さを思い出させた。
「せ、晴明っ、バスタオルを……」
「俺とお前の関係は、あの男も敦見様だって知ってるぞ、とっくにな」
「でも、汚したら……」
胡座をかいた長身の男の膝上で、巻毛の青年が口篭る。いつも博雅は始める前に、こうやってあれこれ注文を並べてくるのだ。
羞恥心からなのだろうが、もっと我を忘れ夢中になって欲しかった。
「なあ、覚えているか? 初めてラブホテルでヤった後、シーツを剥いで
持ち帰ったよな」
「……だって……、あんなに濡らしてしまって……」
「俺も男相手は慣れてなかったし、まさか突き過ぎて漏らすとは思ってなかった」
「…………」
既に熟しきったプラムのように耳まで蒸気させた博雅は、強く自分を抱え上げていた男の広い胸を震える手で押す。拒絶だ、これは不味い。
「悪かった、バスタオルを敷けば良いのか? それで博雅公はご満足なのか?」
「…………、トイレで、準備したい……」
「それはダメだ。お前が海外で慎ましく一人寝をしていたか、隅々まで確かめるから」
「お前、俺を疑うのか?」
「まさか、おもちゃで慰めてなかったのか調べるだけだよ」
口を噤んでしまった恋人に薄く微笑んで、ベッドルームに併設しているシャワーブースからバスタオルを持ち込み、素早くシーツ上に重ねる。
黙ったままの音楽家は、半泣きの赤面を見せないように俯いて自らベルトと
ファスナーを解いて、ロールアップデニムをデュべの奥に落としてしまった。
「今日は、いつもよりもっと可愛いよ、博雅。よく似合ってる」
「は、激しくしないでくれな。明日は泳ぎたいから」
「了解」
「跡もつけないで」
「やれやれ、そっちは確約できかねますよ、皇孫殿下」
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マダム、ムッシュ、貧しい哀れなガンダムオタクにお恵みを……。