映画『パラダイス 愛』
2012年/製作国:オーストリア/上映時間:120分
原題 PARADIES: LIEBE
監督 ウルリヒ・ザイドル
予告編(日本語)
予告編(海外版)
※「パラダイス・トリロジー(三部作)」は監督の意図通り、「愛」「神」「希望」の順での鑑賞がおすすめです
STORY
オーストリア。ウィーンにて自閉症患者のヘルパーをしている50代のシングルマザーテレサは、一人娘のメラニーを姉のアンナの家に預け、ケニアのビーチリゾートへと向かう。
そのビーチリゾートの浜辺には、「シュガーママ」と呼ばれる白人の中年女性に体を売る代わりに貢いでもらいヒモとして生計を立てる、「ビーチボーイ」と呼ばれる男たちがいた。
自国にて長く「愛」に飢えた日々を送ってきたテレサは、親友のインゲから、その「ビーチボーイ」達とのセックスの話を聴き興味をそそられ、彼らの待ち構えるビーチリゾートの敷地外へと踏み出してゆく・・・
「愛」を希求するテレサが、南国のパラダイス(楽園)にて見つけたものとは?
レビュー
ウルリヒ・ザイドル監督の「パラダイス・トリロジー」第1部『パラダイス:愛』。
鑑賞後、「愛」に関するいくつかの格言が脳裏に浮かびました。
・愛とは、求めて得られるものではなく。与えることで得られるもの。
・愛に対する飢えの方が、パンに対する飢えを取り除くことより、はるかに難しい。
・愛とは見つめ合うことではなく、 一緒に同じ方向を見つめること。
・夜の静けさのなかで、わたしは千の人々の喝采よりも、 愛する人からの一言、二言が欲しくなる。
・愛されなかったということは生きなかったことと同義。
・愛されないのは悲しい。しかし、愛することができないというのはもっと悲しい。
若い男性からの「愛」を求めてやまないテレサは、愛し方も、愛され方も知らないため、色欲と上辺だけの言葉に溺れることとなり、さらには「金」と「支配欲」を用いて「愛」を手にしようとするため、求めれば求めるほどに、「愛」はテレサの元より遠ざかってゆくのでした。
ウルリヒ・ザイドルは世界屈指の知性派監督であり、それゆえに鑑賞者の観たくないものを完璧に熟知しているにもかかわらず、しかしあえてその観たくないものを幾何学的、色彩的に洗練された美麗な映像へと落とし込み、より鮮明に且つ威力を増幅させた上で、鑑賞者の脳内へと無慈悲な連続投下(連続爆撃)を遂行してきます。
テレサの(年齢的にも体型的にも衰えた)歪な「肉体」と「行為」は、その内面世界の投影であると共に、数百年の間「植民地支配」に晒されてきたアフリカ諸国とヨーロッパ諸国との歪な主従関係による支配と搾取の歴史とその実態のメタファーとしても機能しているように思われます。
またテレサを含む白人女性達の歪な肉体は、それとは真逆の「若い黒人男性達の引き締まった肉体」や南国の美しい「海」や「空」と共に画面の枠内に納められ、意図的に対極にあるものとして対比させられつつ、その構図の中心を担わされることにより、鑑賞者が普段目を背け、蓋を堅く閉ざして見ないようにしている現実のある側面(特に自らの「恥部」や「暗部」)までをも、一切の忖度無しに(まるで「鏡」に映して突きつけるかのように)暴いてゆきます。
ダウン症候群の人々をヘルパーとして見守るテレサ、サルにバナナを与えて写真撮影しようとするもバナナだけ取られて撮影に失敗するテレサ、ビーチに張られたロープ(境界線)、ワニへの餌やりショー、驚くほどハエの集る喫煙所のテーブル・・・
まやかしの「多様性」と建前だけの薄っぺらい喜びと笑い声と笑顔、異国の夜のホテルの部屋でひとりきりになった時間に訪れる途方もない孤独と絶望・・・
お金しか見ていない相手に「私の瞳を見て その奥の心を観るの 分かる?」と語りかけるテレサのピュアで痛々しい姿は、数々の美しい(又は醜い)映像と共に、私の心に一生癒えることのない爪痕を残したのでした。
※最高に「知的」且つ「面白い」、大好きな作品です
コリント人への第一の手紙13章より
「パラダイス・トリロジー(三部作)」は、《コリント人への第一の手紙13章より》を元ネタに制作されているように思いますゆえ、その文を以下に記しておきます。
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