修思聞:わくわくすることを取り敢えずやってみる
京都の歴史ある建仁寺塔頭、両足院は、800年の歴史をもつ禅寺ながら、非常にユニークな特徴があります。その静謐な佇まいの中に現代アートの躍動を迎え入れているのです。この斬新な試みの背景には、副住職の伊藤東凌氏が、長谷川等伯の襖絵など、博物館に収蔵されるような作品が実際に使われているのを見て育ったことにあります。この経験から、貴重なものだからと仕舞うのではなく使うことの意義、さらには、時代が変われば新しいアイデアを受け入れ創り出すことの重要性に気づいたのです。
伊藤氏の、800年にわたる歴史に根ざしつつも、新たな表現を積極的に受け入れる姿勢には、禅の「修思聞」の思想が感じられます。本稿では、「修思聞」がもたらす創造性の本質に迫ります。
創造性を解き放つ「修思聞」の思想
両足院で行われる現代アートの展示は、単なる作品の展示に留まりません。アーティストがスタジオで制作したものをもってくるのではなく、アーティストと伊藤氏とでワークショップなどを行い、周りを巻き込んでコンセプトをつくっています。この姿勢は、禅の修行に基づく「修思聞」の思想に支えられています。一般的な学びの順序「聞思修」(聞:学び、思:考え、修:実践)とは異なり、「修思聞」は禅の修行で行われる修得の方法です。取り敢えず行動し、試行錯誤を重ね、最後にその意義を探求することで新たな発見を引き出します。このアプローチは、ビジネスにおいても新たな可能性を切り開く鍵となります。
エリザベス・ペイトンとの対話
2024年8月、米国人アーティスト、エリザベス・ペイトンの展覧会が両足院で開催されました。ペイトンは、歴史的な人物やスター、友人の肖像画で知られていますが、この禅寺の半夏生で有名な庭園に触発され、彼女の作品は新たな次元へと進化しました。
伊藤氏とペイトンの対話で、両者の間に深い共感が生まれました。伊藤氏は、寺に眠る古い家具や伝統的な素材を提供し、ペイトンによって新たな生命が吹き込まれたのです。その結果、ペイトンは、寺の大書院にエルヴィス・プレスリーの肖像画を展示するなど大きな揺らぎを引き起こしました。一方で、この場所に自然と溶け込み、長年そこに存在していたかのような一体感を醸し出す襖絵をも制作し、寺に奉納しました。ペイトンも両足院もともに「修思聞」の態度で影響を与え合い、唯一無二の展覧会ができたのです。
誰もが表現者になれるように
伊藤氏は、アートのような表現は、自分自身の可能性の表出と捉え、全ての人が表現者になることを理想と考えています。しかし、現代社会では、多くの人々が無意識のうちに常識や規範に縛られ、自由な発想が阻まれがちです。「こうあるべきだ」という固定観念は、新しいアイデアを生み出す力を抑え込み、失敗への恐れが創造性を封じ込めます。そのような中、アーティストはその枠を飛び越え、新しい価値を見出す方法を心得ています。彼らのように未知の環境で創造し続ける姿勢は、「修思聞」で磨かれると言っていいでしょう。
ビジネスの世界もまた、修思聞の哲学を活かす場です。迅速に変化する現代社会では、新しいアイデアを生み出すために、まず行動してみることが重要です。創造性とは、必ずしも最初から完璧なものを生み出すことではなく、内に眠る可能性を少しずつ解放し、形にしていくプロセスそのものです。ペイトンの例が示すように、自己の中に潜む創造の芽を形にすることが、新たな価値を生む一歩となるのです。
自身のわくわくに耳を傾け行動する
800年にわたる禅寺が現代アートと共鳴し合い、私たちに問いかけるのは、挑戦する姿勢です。真の創造とは、歴史や既存の常識に囚われることなく、新たな視点を見出し実現しようとする勇気から生まれます。とりあえずやってみるという「修思聞」こそ、変化の激しい現代を生き抜き、未来を切り拓くための態度なのです。
伊藤東凌氏の言葉が、その真髄を鮮やかに映し出します。
自身の中の「わくわく」に耳を傾けて行動してみる、そこから始まる小さな一歩が、想像もつかない未来への扉を開くかもしれません。