異化作用:日常を非日常へ転換し価値をつくる
「なぜスターバックスのコーヒーは、世界中の都市に進出できているのか?」「どうしてIKEAは、従来の家具業界の常識を覆すことができたのか?」。これらの企業に共通するのは、それまでの常識を覆し、日常を非日常的な体験へと転換する「異化作用」をコンセプトに取り入れたところにあります。
この異化作用という概念は、もともとアートの世界で生まれました。これは、ソ連の文学理論家ヴィクトル・シクロフスキー(1893-1984)が提唱した「慣れ親しんだ日常的な事物を奇異で非日常的なものとして表現する」という考え方です。近年、この概念がビジネスイノベーションの重要な視点として再評価されています。本稿では、異化作用をビジネスイノベーションにいかに取り入れるかを、具体的な事例とともに解説します。
アートにおける異化作用:非日常への扉
アーティストたちは異化作用を創造的表現の核として活用してきました。例えば、クリスト(1935-2020)とジャンヌ=クロード(1935-2009)は、パリの凱旋門など巨大な建築物をすっぽり布で覆い、風景を一変させるアートを制作してきました。2016年に行った「The Floating Piers」プロジェクトでは、イタリアのイゼオ湖(Il Lago D’Iseo)の湖畔の街スルツァーノ(Sulzano)から、湖に浮かぶモンテ島(Monte Isola)とその周辺に、鮮やかな黄色の布で包まれた浮遊式の埠頭、「フローティングピア」をめぐらせました。通常、湖の中の島にわたるには船を使いますが、その常識を覆し、人々が水上を歩くという非日常的な体験を創出しました。この作品は、日常的な「歩く」という行為を全く新しい文脈で再解釈し、人々の知覚を一新させることに成功しました。
また、草間彌生さん(1929-)の「オブリタレーション・ルーム」も、異化作用の効果的な活用例です。真っ白な部屋に、来場者がカラフルなドットシールを貼っていく参加型インスタレーションで、一般的な部屋が、ドットシールによって徐々に変容していきます。普通のシールという日用品が、空間全体を変化させる媒体となり、私たちの空間認識を大きく変えるのです。草間さんは、ドットシールで身体や空間を覆うことで、自身の身体も他者もすべてがドットの中に消滅することに気づき、新しい知覚体験を生み出すことに成功しました。
異化作用のビジネスイノベーションへの展開
異化作用は、ビジネスの世界でも革新的な成果を生み出しています。スターバックスの事例を見てみましょう。彼らは「コーヒーを飲む」という日常的な行為を、「サードプレイス」という新しい価値に転換しました。家庭でも職場でもない第3の空間を提供するというコンセプトは、コーヒーチェーン店の常識を覆す革新的なものでした。
このコンセプトを実現するため、スターバックスはインハウスの内装デザイナーによる空間づくりにこだわっています。「白」「グレー」「茶」の3色を基本として居心地の良さを演出し、各店舗に独自のアート作品を設置することで、その場所ならではのストーリーを表現しています。結果として、世界中の大きな街にはスターバックスの店舗が存在するまでになりました。
IKEAの事例も興味深いものです。彼らは完成品として販売するのが当たり前だった「家具」を、顧客参加型のDIY体験として再定義しました。これは輸送コストと破損リスクという実務的な課題を克服すると同時に、顧客に新しい価値を提供することにも成功しています。この考え方は、草間彌生さんの参加型インスタレーションと通じるものがあり、顧客が製品の完成に関与することで、より深い愛着と満足感を生み出しています。
コカ・コーラの「Share a Coke」キャンペーンは、異化作用を活用したマーケティングの好例です。オーストラリアで始まったこのキャンペーンでは、国内で多い150の名前を選び、製品ボトルに印刷しました。通常の飲料ボトルを個人的なメッセージの媒体として再解釈することで、消費者に自分や友人の名前が書かれたボトルを探す楽しみを提供しました。さらに、見つけたボトルをSNSで共有する行動を促進することで、口コミの拡散にも成功しました。人口2,500万人のオーストラリアで2億5,000万本という驚異的な販売実績を達成し、その後70カ国以上に展開されました。
イノベーション創出のための異化作用の活用法
異化作用を活用したイノベーションを生み出すためには、以下の3つのポイントが重要です。
先入観を取り除く:既存の常識や慣習にとらわれず、物事を見つめ直す姿勢が必要です。スターバックスが「コーヒーショップ」という既存の概念を超えて、新しい空間価値を創造できたのは、この姿勢があったからこそです。
丹念な観察:日常の些細な出来事や行動の中に、新しい価値を生み出すヒントが隠れています。IKEAは、家具の組み立てという「面倒」と思われていた作業を、新しい顧客体験として再定義することで、ビジネスモデルの革新を実現しました。
常識を覆す発想:当たり前とされていることを、別の角度から捉え直すことで、革新的なアイデアが生まれます。コカ・コーラの事例は、大量生産品であるボトルを個人化するという逆転の発想から生まれました。
イノベーションは、必ずしも技術革新だけを意味するものではありません。アートの世界で培われた異化作用の考え方を取り入れることで、私たちの身の回りに存在する「当たり前」を見直し、新しい価値を創造することができます。
現代のビジネスにおいて持続可能な競争優位性を確立するためには、アートのコンセプトを取り入れ、日常に潜む非日常的な価値を発見する努力が欠かせません。異化作用という概念は、その実現のための重要なツールとなるでしょう。アーティストのように既存の枠組みにとらわれず、日常を新たな視点で捉え直す姿勢が、次世代のビジネスイノベーションを生み出す鍵となるのです。
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