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背泳ぎ事件

今から20年近く前のこと。20代後半の私は一度目(?)の禁煙に成功して調子に乗っていた。タバコをやめると味覚が戻って食べ物がおいしく感じられるようになり、内臓も元気になるので、よく食べ、よく太る。今から比べればぜんぜん正常の範囲どころか、むしろ痩せすぎだったのだが、調子に乗っていた私は
「痩せなくちゃな。よっしゃいっちょ運動したろ。私ってば、やればできる子だから、今までずっと息継ぎできなかったけど泳げるようになろ」
と軽く考え、生まれて初めてスポーツクラブに入会した。禁煙に成功した私にできないことなどないと思っていた。

そのスポーツクラブのプールでは、5つほどあるレーンのうち2レーンを使って、いろいろなレッスンが行われていた。レッスンは時間割が決められているので、会員さんは好きなレッスンの時間に合わせてプールに入れば自由に参加できる仕組みだ。もちろん、レッスンに参加せず空いてるレーンで泳ぎまくっていても問題ない。
私は週に2回ほど通い、ひとりで水中ウォーキングしたり見よう見まねで息継ぎの練習をしたりを8割、残りの2割でレッスン参加するくらいのペースを保っていた。

そんなある日のこと。プールのレッスンの時間割を見ると、たまたま初心者向けの背泳ぎ教室が行われている時間帯にあたった。背泳ぎなら苦手な息継ぎを気にしないで済む。入会して2か月ほど経っていながら、いまだに息継ぎがうまくいかず息切れしてしまう私は背泳ぎに活路を見出すことにして、意気揚々とレッスンに参加した。息継ぎできないくせに、まだ調子に乗っていた。

インストラクターは、いかにもスポーツクラブのスタッフらしい若いオニイチャンだった。たぶん私よりいくつか年下だったと思う。レッスンに参加した人は10人くらいいて、インストラクターは手本を見せては実践させる、という流れで教えてくれた。実践させているあいだは参加者の間を順番にまわり個別にフォローしてくれて丁寧だった。

何度目かの実践のタイミングで、インストラクターが私のところに来てくれた。私は腕の回し方を練習しているところだった。仰向けに浮いた私の肩の横あたりに立ったインストラクターは、私が腕を水面から上げて、まっすぐ伸ばして頭の横に下ろす様子を見守る。
頭の横を通った腕が水面に入るまでのほんの一瞬、インストラクターが固まった、ような気がした。気のせいかもしれない。それくらい一瞬だった。
「そうそう。腕はできるだけ耳の横に近づけて。あごは引く。もう一回」
インストラクターはそう言って反対側の私の腕が回る様子をチェックしてから離れていった。
反対側の腕を回したとき、インストラクターに変わった様子はなかった。やっぱり気のせいだったのかな。そう結論づけてレッスンが終わり、インストラクターが去ってからもひとりで練習を続けていたのだが、突然、心に雷が落ちるような衝撃が走った。あることを思い出し、すべてを悟った。


わたし、ワキの毛ボーボーだ……

今日もひとりで黙々と練習するつもりだった私は、だれかの前で仰向けになって、ましてや腕をピーンと伸ばしてあげる未来なんてまったく想定していなかったのだ。そういうことじゃないだろプールだぞ、と思ったみなさん。あなたは正しい。だけど、ときに正しさは人を傷つけることを覚えておいてほしい。肌が荒れがちな私は極力ムダ毛を処理しない生活をしていた。当時、エステの脱毛は、やっとレーザー脱毛が出回り始めたころで今ほど当たり前のケアではなかった。

認めよう。ぜんぶ言い訳です。

気の毒なのはインストラクターだ。まさかオバさんというにはまだ少し早いかなと言う年齢の生徒さんが、いきなりボーボーのワキ毛を晒してくるなんて夢にも思わなかっただろう。コイツなんで背泳ぎのレッスン出たんだ?って混乱したに違いない。本当にごめんなさい。忘れてたんです。忘れてただけなんです。

もう練習を続ける気になれなかった。そそくさとプールを出てシャワーを浴びて家に帰った。調子に乗らなくなった。タバコは1年くらいしてまた吸いだしたけど、10年後に二度目の禁煙に成功してそれからぱったりやめたし、二度目は調子に乗らなかった。あと息継ぎは少しできるようになって、25mプールの端から端までだったらなんとか途中で立たないで泳ぎ切ることができるようにもなった。



こちらはマガジン「いりえで書く」の8月のテーマに沿って書いた記事でした。8月のテーマは「夏の嫌な思い出」または「夏のやらかし」です。他の方の記事も楽しいので、よかったらマガジンのほうも読んでみてください。

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star_of_bba
twitterの人に「ブログでやれ」って言われないようにアカウント作りました。違うブログで台湾旅行や入院や手術に関してお役立ち情報書いてます。よかったら見てください。 http://www.ribbons-and-laces-and-sweet-pretty-faces.site

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