『檸檬先生』(珠川こおり)感想
主人公の物語は極めて陳腐。が、その裏側でひっそりと進行し、終盤突如として表舞台に出現し破局へと至る「檸檬先生」の物語は、素晴らしい。表層にはつまらないが、深層には傑作という、きわめて危ういバランスの上に成り立った良作。
思うに「自我」の確立、あるいはその主張こそが、作品全体としての主題だろう。読み始めてすぐに感じたのは、「少年」の自己主張の希薄さからくる退屈であった。終盤に近付くにつれてそれは徐々に変化していく。あるいは檸檬先生も同様だろう。他者からくわえられる危害に対しても、また強制されることに対しても、抗うことをしないのだ。それが、人間関係の変化や、「自殺」という行為によって決定的に変革する。つまるところこの物語は、はっきりとした自己主張を、彼ら彼女らが可能にするところで終焉を迎えるというわけである。
構造的に見るのであれば、本作はまた、きわめて単純な二元論的構造に端を発していることがわかるだろう。主人公に危害を加えるカオスな俗世、悪魔的世界。蜘蛛の糸を垂らし、救済へ導く檸檬先生、いうなれば天使。この物語世界を「天使」「悪魔」の二元論で読み解くと、その中間に存在する「人間」的存在、つまり善にも悪にもなりうるものが、主人公やその家族に限られていることが判明するのだ。世界は「主人公をいじめる人間」と、「主人公を救う人間」とで、真っ二つに分かれている。ここに、ある種フィクションのフィクションらしさが、悪い意味で表出している。人間らしい人間が、そこには見当たらないのである。
しかし、この二元論は、物語が進むにつれて少しずつ崩壊へと向かっていった。善でも悪でもない、中立的な「おばあちゃん」。あるいは決定的なところでいうと、主人公に優しく接するクラスメイトの登場である。こういった外部の変化に伴って、外界からの危害に一切受動的な態度が、描写されなくなっていく。
先に述べた「陳腐」とは、この構造に由来する。物語の結末である「自己主張」が、主人公本人の自発ではなく、檸檬先生の導きや、優しいクラスメイトの存在によって――つまり環境、外部の要因により達成される。「いじめ」はあっけなく収束し、クラスメイトの手のひら返しに主人公は何も違和感を覚えていない。そこには物語にとって都合の良い、表層的な展開のみが存在し、人間の内面におけるリアリティが感じられない。あるいは、この「違和感」の不在もまた、結局のところ主人公の「自己主張のなさ」に起因するものなのだろうか。
主人公の物語が進行する裏で断片的に読み取れる「檸檬先生」の物語は、不思議とこういった問題を抱えていない。主人公の陳腐な物語に、点々と配置されえていた伏線が、終盤突如と回収されるさまは圧巻だった。思うに本作が単なる三流小説に陥っていないのは、ほかならぬこの「檸檬先生」のおかげだろう。わたしが物語に必要不可欠だと考えている「鮮烈さ」や「人間性」、そういった全てを彼女は一人で担っている。この危ういバランスが計算されたものであるなら、なんと末恐ろしい作家ではないか。