〜ひとり憂鬱の中にいる繊細でめんどくさい友人達へ〜
私にとって「それ」は新しい季節と共にやってくる
「それ」が来る数日前からは、匂いを強く感じたり、いつもの音楽がやけに心に響いたり、、やたら感情的になたったりする。これがお馴染みのサインだ。
「わぁ、、今日の夕焼けは世界一綺麗だ!!」
なんて見つめていたら、陽が落ちてきて、そろそろ家に帰らねばと思う。
帰り道は、1人上機嫌で鼻歌を歌いながら、
そういえば昔はよく影を踏んで近所の女の子と遊んだなぁなんて思い出してみては、
あの子は今、どんな「女」になって、誰に愛され、恋人の前ではどんな顔で笑うのだろうなんて考えたりする。
なんとなく下を向いて歩く
どこかの家のお母さんが自転車から落としたのだろうジャガイモが、たくさん擦り傷をつくって脇道に転がっている。
こいつはカレーの具材になる使命を全うすることができなかったのだ、などと勝手に想像し、哀れんでいると
家で、こいつがいないことに気がついた、どこかのお母さんの困った顔が浮かぶ
その光景にはなんとなく既視感がある気がして
「ごめんね」と呟く。「はあ。。
こんな流れで「それ」はやってくる。
まずは、読んでくれた方がいたらありがとうございました。
「それ」との付き合いがない人が読んだらサッパリな内容だとは思うが、私の場合は何かのきっかけ、
主に、「感動」や「哀しみ」などが重なり合ったタイミングで「鬱」の様な物がやってきてしまう。
それからの数ヶ月は、普段の景色は薄い遮光レンズを通した様になり、部屋の天井を見つめる時間がそれまでの何倍にも増える、そしてひたすらネガティヴに。。。。
眠れない。
そして、何より、、なんかずっと寂しい。ずっと
仮に恋人がいたとしても心は乾いている
今は比較的元気だから、この記事を書いたが、秋口なんかは私にとって最悪だ。
こんな感じで、私は何年も「それ」と向き合っているし、これからも向き合っていこうと今は思っている。
「それ」は私の心を、一瞬で変えてしまう魔法のような力を持っていて、多くのものや時間を奪って行く。
けれど、その代わりに、置いていってくれる物もあると今の私は思う。
何故なら、
私がその日みた夕焼け、言葉にすると陳腐だが、本当に、、「涙が出るほど綺麗だったから。」
考えようによって、神様はそんな風に帳尻を合わせてくれていると、今は思うようにした。
だから、
私と同じ「それ」と向き合ってる人がいたとしたら聞いて欲しい。
「辛い」、「寂しい」、と感じるのは生きてて自然な事、
誰かと比較して自分を責めたり、羨んだりしても本当にキリがない
だって、羨ましいなと思ってる人「スターや芸能人」ほど悩んでたり、ぽっくり死んでしまったりするでしょう?
だから私は、幸福なんてものはその人個人の考え方次第だと思っている。
例えば、
クラスの授業で「今日はm皆さんの持つ「色」でキレイな色を作ってみてください」と言われたとする。
嫌でも「黒」の絵具なんて色を混ぜると案外簡単に作れてしまうもんで
クラスの何人かが黒い絵具になってしまったとしよう。
キレイと言われる色を作る生徒なんかが周りで褒められて、一方、色の配合を間違えて、パレットが黒くなってしまった生徒は「私の色は綺麗なのか?」と悩むことだろう。
「私もキレイな色を作りたい」と、努力して、どんどん色を足したとしても、その色の濃さなんて、もはや自分でもよく分からなくなっていって、、、
もう修復不可能、パレットは真っ黒
授業の終わりでそんな劣等生たちに残る色は、等しく「黒」
「青」や「赤」く光る連中ばかり目立つ、そして途中の努力は報われず、見栄えのいい連中ばかり褒められたりする。そう、世の中は残酷で冷たい。
競争社会にいる以上、ハングリー精神なんて御構い無しに、リング上で勝つのは強い者だと相場は決まっている。
悔しい、、、、、。
ならば一度、そのパレット、洗い流して、みてはどうだろうか
授業なんて、大抵次もあるし、またやればいい、
なんならいっそリングなんか降りて、そんな世界ごと捨ててしまってもいい。
次のリングでは、他人が作ったキレイな絵具を使って、絵でも描いたらいいじゃないか、
もちろん、初めから「連中と比べずに自分の色を死ぬまで誇ってもいい」
黒が綺麗じゃないだなんて、誰もいっていないのに、そう考えているのは大抵自分だったりする。
深呼吸して周りを見渡してみる。
「リングは狭いし、世界はバカみたいに広い。」
腹が減ったときの牛丼はイタリアンより美味かったりする。
大切なことなど初めからそんなに無かったのだと気付く事が最も大事だと思う。
役にたたないと思われてる人ほど役に立つ瞬間があると、役にたたないと言われて生きてきた私は思う。
この思考を心の何処かにそっとしまって見てはどうだろうか
案外もっと生きやすいかも。^_^