暗記主体の学習から脱出する唯一無二の方法とは?
記問之学(きもんのがく)
→ ただ暗記しているだけで、自分のものとなっていない学問。
日本は詰め込み教育だといわれることが多い。
それは、教育の目的が平均的な人を育てることにあるからである。
とある分野で突出している人やその芽がある人は忌み嫌われる傾向にあり、5段階評価のオール3を取る人間を生み出す仕組みが多い。
私は常々、こういうタイプの人間は今からの時代によりそぐわなくなると宣言している。
ただただ暗記するだけでは、自分のものとなっていないというのは、まさにそのとおりである。
では、どうすれば暗記型の人間にならないのか、そこについて持論を述べていきたいと思う。
なぜ暗記主体の教育になるのか
学生時代を振り返って欲しい。
なぜ暗記主体の教育になるのか、答えは簡単で受験があるからである。
そして、その受験において重要なのが暗記になるというわけだ。
どの科目においても暗記で点数が取れるというパートが根本に必ずある。
となると、覚えてさえいれば点数が取れるところを最低でも取りに行こうという心理が働く。
その結果、詰め込めばなんとかなるという暗記主体の思考になってしまうというのが結論だ。
思い出して欲しい。
先生という立場の人が、ここテストに出るからよく覚えておくようにというフレーズを聞いたことがあるという人は多いはずだ。
考えさせるのではなく、暗記させることを示唆しているのだから真の意味での教育とは程遠い。
日本の教育制度が果たして本当に悪いのか?
日本の教育制度に問題があるということで、子どもをインターナショナルスクールやはやい時期から塾に行かせるという人たちも多い。
個人的にはこの考え方には大賛成なのだが、やはり金銭面に余裕がなければ難しいところも理解できる。
ここが格差を生む要因になっているという話もあるが、確かにそれも一理あると思う。
ただ、本当に日本の教育制度に問題があるのかという問いに関しては疑問だ。
というのも、アメリカやヨーロッパで幼い頃から教育させることが本当に質の高い教育なのかということに関しては、しばしばこんな意見を聞くからである。
中学校2年生までの日本の教育は非常に質が高いという声だ。
もちろん、日本のことだけでなくアメリカやヨーロッパで実際に生活をしたり子育てをしたことがある人たちの意見なのだが、少々意外だと感じないだろうか。
ポイントは、中学校2年生までというところである。
いわゆる義務教育が終わる少し前のタイミングなのだが、確かに世界を見渡してみてもレベルは高いと思う。
どれだけ成績が悪い生徒であっても、読み書きができないというレベルの生徒は皆無だといっていいだろう。
日本にいると当たり前のことで、そもそも教育の一環にすら入っていないような大前提という捉え方もできるが、読み書きができるというのも世界レベルで見れば十分に教育のカテゴリだ。
それから、義務教育の期間は公立の学校に行けば基本的に授業料がかからないという国の保証があることを考えると、制度としてはかなりできたものだということができる。
では、なにが問題なのか。
それは、受験というイベントだ。
受験制度に対する違和感
中学校までは義務教育なので、公立の学校であれば誰でも行くことができるというのが日本の教育制度の根幹にある。
ただ、それ以上の教育を受けたければ、受験というイベントをくぐり抜けなければいけない。
また、未だに高校くらいは卒業しておきなさいという考え方が圧倒的多数だ。
となると、当然進学するという選択をする学生が多くなるので、必然的に受験制度を通らないといけなくなる。
中学3年生になると、完全に高校受験用のシフトに変遷する。
ここが日本の教育制度の最も改善すべき点だと私は考えている。
受験制度の本質の部分がほとんど変わっておらず、その根本にあるのが暗記型の問題だという点だ。
一見、受験方法は多様化が進んでいるように見えるが、受験する際に受ける問題の本質は基本的にどこも変わらない。
傾向と対策を練ることが重要とされるが、科目によっては覚えておけばいいという問題パターンも多い。
考えるというよりは脳の記憶の部分を効率よく使うというイメージだ。
実際、私も高校受験をする際には、暗記型の取り組みをしていたように思う。
周りの同級生を見渡しても、誰もが同じように英単語集を持って暗記している姿をよく見ていたことは今でも鮮明に覚えている。
では、なぜ私はこの暗記型の受験制度に違和感を覚えるのか。
それは、社会に出たときに役に立たない勉強を貴重な若い時代にしていることに他ならない。
暗記主体の学習から脱出する方法
では、そんな暗記主体の学習から社会に出たときに役に立つ学習をする方法はどういったものなのか。
答えは簡単で、自分が興味のある分野を徹底的に学んで、自分以外の人に教えることだ。
そもそも、興味のあることしか人は学ぼうと思わないし、記憶として定着しない。
人間の脳は実によくできていて、必要ないと判断したものは自然と忘れ、記憶しておいた方が良いと判断したものはずっと覚えている。
この記憶というメカニズムについては、まだまだ謎も多く、脳科学者たちが様々な説を唱えている分野でもある。
そんな中、確実にいえることは、自分自身で納得することは学習ではなく、他人に教えることができて初めて理解していると言い切っていい。
人に教えると必然的に相手から質問が出てきたり、上手く伝わっていないことや自分が上手く話せているかの判断ができる。
その過程を経て納得できれば、その分野に関しては完全に理解していると自信を持って言い切っていい。
そういう記憶は間違いなく脳裏に焼き付いているからである。
くり返すが、社会に出て役に立つ学習法を身につけるには、とにかく興味のない人であっても興味を持ってもらえるように教えるということだ。
この教えるということが上手にできればできるほど、その人は社会に出たときの価値が高い人物になる。
まとめ
私は生まれながらに親族に教育者と呼ばれる立場の人が多い環境で育った。
そんな環境下にいたこともあり、教育に関してはいろいろと思うところがあることは過去に何度も述べていると思う。
先生は先生としてしか働けない、つまり他の職業に転職できないという通説があることがそもそもおかしいのだ。
経営者やいろいろと社会で成功者とされている立場の人が先生として学校に来るといった外部との接点をもっと増やすべきだし、年功序列や画一的な給与制度等も抜本的に変えるべきだと考えている。
というのも、特定の分野に限られるが、私はどの先生よりも上手に教えることができる分野を持っていると言い切ることができるからである。
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