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商才に優れていた戦国武将

士魂商才(しこんしょうさい)
→ 武士の精神と商人の才能とを兼ね備えていること。

優秀なビジネスマンの中には、戦国時代が好きだという人が多い。

かくいう私もその1人なのだが、天下統一するという筋書きとビジネスにおいて成功を収めるというところのロジックが、どこか似通っているところがあるからなのかもしれない。

そして、好きな戦国武将がいたり、好みの城があったりするのだが、士魂商才のテーマにふさわしい戦国武将を紹介してみよう。

美濃のマムシと恐れられた斎藤道三

戦国時代に現在の岐阜県の南部にあたる、美濃の国を乗っ取ったとして有名なのが、斎藤道三である。

成り上がり武将として有名な斎藤道三だが、権謀術数に長け、親の腹を食い破って生まれるとの迷信があるマムシのようだと恐れられたことから、美濃のマムシという異名がついた。

そんな斎藤道三の最期は皮肉にも息子の斎藤義龍と対立し、討死するのだが、どんな人物だったのか。

実は斎藤道三の出自については、よくわかっていない。

父は、長井新左衛門尉、別名を松波庄五郎とされているが、不明な点が多く、元は武士でありながら事情があって浪人となったという。

斎藤道三の幼少期だが、11歳で京都の妙覚寺にへ入り、法蓮房の名を受けて僧侶となる。

その後、20歳で出家した人が属人に戻るという還俗を行い、油問屋の奈良屋又兵衛の娘を妻に娶り、油商人に転職する。

そこで斎藤道三が見せた商売方法が、未だに語り継がれている。

漏斗を使わず、油を一文銭の穴に通してみせます。もし、油がこぼれたらお代は結構です。

漏斗(じょうご)とは、ロートと言い換えればイメージがつく人も増えるのではないだろうか。

液体または粉体を口径の大きい容器から、口径の小さい穴または管を通して投入したり、液体を壁面を流下させたりする際に利用する道具のことだ。

これを使わずに油を通すということは、当時は油の質がよほど高くなければ無理なことだった。

そんな口上を武器に、商売を大成功に導いたのである。

そんな中、行商に行った先で、武士からその力を武芸に注げば良い武士になれるものをと言われたのをきっかけに一念発起する。

こうして、斎藤道三は油商人をやめ、槍と鉄砲を学んで達人となり、念願の武士になるというわけだ。

武士としての斎藤道三

武士としての斎藤道三は何度も名前を変えて、美濃国を乗っ取るのだが、その最大の武器は優れた先読みをする能力だった。

また、斎藤道三は娘を政治的に重要な相手に嫁がせるというやり方を、隣国との同盟にも使った。

同盟の証しとして娘を嫁がせることは珍しい話ではなく、戦国時代の常套手段だったわけだが、その中でも有名なのが、織田信長に嫁いだ帰蝶だ。

というのも、うつけと言われる織田信長が、真にうつけであれば命を奪えと、斎藤道三は帰蝶に小刀を渡して送り出したという逸話がある。

これに対し、気概のある娘の帰蝶は、父上の命を奪うことになるやも知れませぬと返したという。

そんな帰蝶を送り出すことに斎藤道三は安堵し、あわよくば織田信長も消せるかもしれないとほくそ笑んだという。

斎藤道三の指導者としての姿

商人としても武士としても成功を収めた斎藤道三だが、その根本にあったのは優秀な指導者としての姿だ。

油売りをしていたとき、まず売上の大小で客あしらいを変えてはならないという商売思想を持っていた。

そして、上に立つ者といえども自らが商売の最前線を経験しなければ大きな商いの指示などできないという行動姿勢を備えていた。

これは、顧客を惹きつけ使用人たちの信頼感を得ることの大切さを知ればこその姿勢であって、決してあぐらをかいていて成功を収めたわけではない。

それを室町時代の商売経験のない斎藤道三にそんな思想や姿勢があったことには驚かざるを得ない。

そして、こんな話もある。

斎藤道三は、自ら油売りをする中で使用人たちが一滴残しで貯めた油を自分の商売にしている悪事を見つけると、それを禁じたのである。

その際に2つのルールを決めて徹底させたという。

1つ目は、顧客自身に油の計量をしてもらい、公明正大な業務姿勢を顧客に表明し店の信頼感を高めたこと。

もう1つは、使用人たちに一滴残しでこっそり稼いでいた油と同量の油を日々くれてやるということ。

つまり、そんなセコいことをしなくても生活ができるように使用人たちのモチベーションを上げて忠誠心を強くさせたわけだ。

商人のときから才覚のあった斎藤道三が、美濃国を乗っ取ることができたのは、どこか必然だったのかもしれない。

斎藤道三に興味が湧いて知りたいという人は、司馬遼太郎が著している国盗り物語を読んでみるといいだろう。

織田信長がひと目で認めた大器

もう1人の武将を紹介しよう。

蒲生氏郷(がもううじさと)という人物をご存知だろうか。

あまり耳にしたことがないという人が多いと思うが、織田信長がひと目で認めた大器として知られている人物だ。

そんな蒲生氏郷は、1556年に現在の現在の滋賀県蒲生郡日野町に位置する近江日野の中野城の城主だった蒲生賢秀の嫡男として生まれた。

そして、1568年の13歳のとき、織田信長の人質として岐阜城に送られ小姓として信長に仕えるのだが、信長は氏郷の非凡な才能を一目で見抜いたという。

翌年の1569年には、織田信長自らが烏帽子親となり元服している。

当時、小姓たちの教育係でもあった稲葉一鉄も、この子の行く末は百万の将たるべしと賞賛したと伝えられているほどだ。

同年、織田信長は、南伊勢の北畠氏討伐の折に、蒲生氏郷に初陣を飾らせると、直後に自分の娘である冬姫を嫁がせて、日野へ帰国させている。

このことからも、いかに織田信長が蒲生氏郷を気に入っていたのかがわかるだろう。

蒲生氏郷(がもううじさと)の生涯

織田一族となった蒲生氏郷は、その後も度々武功を立てるが、1582年に本能寺の変で織田信長が自刃すると、安土城にいた信長一族を中野城にかくまい、その後は豊臣秀吉に従う。

1584年には、それまでの功績により、南伊勢12万3,000石の松ヶ島城主となった蒲生氏郷は、松ヶ島城の南約4Kmにある小高い丘の四五百森に新たな城を築く。

城造りは急を要するため、資材調達として松ヶ島城の瓦の一部を再利用したほか、石材には河原石以外にも古墳時代の石棺の蓋などを使った。

こうして、城は3年で完成し、1588年に入城した蒲生氏郷は、豊臣秀吉が治める大坂から一字をもらい、城下町を松坂と改めた。

蒲生氏郷は、築城と同時に城下町も整備した。

城の周りは武士を住まわせ、その外側を町人地とした。

さらに、その外側に松ヶ島城下から移された神社や寺を置くことで、守りの拠点としたのである。

他にも、これまで海の近くの松ヶ島城下を通っていた伊勢街道を松坂城下を通るように移動させた。

それと平行に職人町通りや魚町通りを、松坂城正面に大手通り、他にも新町通り(和歌山街道)などを整備した。

設計に際しては、敵の侵入を阻むため、道沿いの敷地は直線ではなく、ノコギリの歯のようにギザギザに区画されている。

また、家の裏手には背割排水という下水路を通し、これを町の境とするなど、守りだけでなく人々が暮らしやすい、軍事や経済の要所としての町づくりを行ったのである。

蒲生氏郷が、なぜこのような町づくりができたのかというと、岐阜や安土で織田信長の町づくりを見ていたからだとされている。

織田信長が行ったように、城下町の経済発展を図るために町中掟を定め、楽市楽座を推進し、近江日野や伊勢大湊から有力な商人を誘致した。

これにより、松阪にはたくさんの人々が集まり、江戸時代には、三井家、長谷川家、小津家など多くの豪商が活躍した。

入城してわずか2年後の1590年には、蒲生氏郷は、奥羽地方平定のため伊達政宗のいた会津42万石へ転封される。

そして、1年余りで奥羽全体を平定した氏郷は、92万石の大大名となる。

蒲生氏郷は、会津でも城の大改修と城下町の整備を行い、その地を若松と名付け、会津発展の基礎を築いている。

そんな蒲生氏郷は、勇猛な武将であっただけでなく、当代きっての文化人でもあった。

特に茶の湯は、千利休の利休七哲といわれる高弟の中でも筆頭に挙げられるほどで、千利休は蒲生氏郷を文武二道の御大将にて、日本において一人、二人の御大名と評している。

歴史を遡ったときに、これほど短期間に出世した例はほとんどないと言っていいほど、蒲生氏郷という人物は優秀だったといえる。

まとめ

失敗すれば即座に命を落とすという戦国時代において、勝ち残ってきた武将たちが優秀だということは、なんとなく理解できるはずだ。

当時の戦略や戦術が現世にも残っているということからも、そういった人たちが築いてきたものは大きい。

そして、そういう人たちは武将でなかったとしても、別の道で大成功を収めた人物であるに違いない。

そんなことを考えさせられてしまうきっかけがたくさんあるから、戦国時代は面白い。


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株式会社stakは機能拡張・モジュール型IoTデバイス「stak(すたっく)」の企画開発・販売・運営をしている会社。 そのCEOである植田 振一郎のハッタリと嘘の狭間にある本音を届けます。