SNS時代が暴く人間の本質とブランディングの新たな挑戦
等量斉視(とうりょうせいし)という言葉は、古代中国の思想に由来する。
「等量」は同じように扱うこと、「斉視」は平等に見ることを意味する。
つまり、人を差別せず平等に扱うという理想を表現している。
この概念の起源は、春秋戦国時代の儒家思想にまで遡る。
孔子の「論語」には「有教無類(教えに類別なし)」という言葉がある。
これは、身分や出自に関係なく、誰でも平等に教育を受ける権利があるという考えだ。
老子の「道徳経」にも「天地不仁、以万物為芻狗」(天地は仁ではなく、万物を芻狗のようにみなす)という一節がある。
これは、自然は全てのものを平等に扱うという思想を表している。
日本では、鎌倉時代の禅僧・道元が「正法眼蔵」で「万法一如」(全ての存在は平等である)という考えを説いた。
また、江戸時代の儒学者・荻生徂徠は「政談」の中で「上下貴賤を論ぜず」と説いており、等量斉視の精神を日本的に解釈している。
現代では、この言葉は「すべての人を平等に扱うべき」という倫理観を表す際に使われることが多い。
特に、企業の人事方針や社会的包摂(ソーシャルインクルージョン)の文脈でよく耳にする。
例えば、国連の「持続可能な開発目標(SDGs)」の中でも、「誰一人取り残さない」というスローガンが掲げられている。
これは、まさに等量斉視の現代的な表現と言えるだろう。
しかし、この理想は本当に実現可能なのだろうか。
そして、私たちは心の底からこの理想を実践できているのだろうか。
この問いに答えるためには、人間の本質に迫る必要がある。
建前と本音:理想と現実のギャップ
「人を差別してはいけない」「みんな平等だ」
これらの言葉を聞いて、反対する人はほとんどいないだろう。
実際、内閣府の「人権擁護に関する世論調査」(2017年)によると、93.3%の人が「基本的人権の尊重は大切だ」と答えている。
しかし、同じ調査で「現在の日本は基本的人権が尊重されている社会だと思うか」という質問に対しては、「そう思う」と答えた人は54.6%にとどまる。
この数字は、理想と現実のギャップを如実に示している。
私たちは頭では平等の重要性を理解しているが、実際の社会ではそれが十分に実現できていないと感じているのだ。
さらに、「人権教育・啓発に関する基本計画」(2002年閣議決定、2011年一部変更)によると、日本社会には依然として、同和問題、アイヌの人々の人権、外国人の人権、女性の人権、子どもの人権などの課題が存在するという。
例えば、男女間の賃金格差は依然として大きい。
厚生労働省の「令和2年賃金構造基本統計調査」によると、女性の給与水準は男性の74.3%にとどまっている。
また、外国人労働者の権利問題も深刻だ。
法務省の「令和2年における人権侵犯事件の状況について」によると、外国人に対する差別待遇に関する人権侵犯事件は、前年比14.8%増の254件に上っている。
これらの事実は、私たちの社会が「等量斉視」の理想からいかに遠いかを示している。
では、なぜこのようなギャップが生まれるのか。
その答えは、人間の本質的な性質にある。
人間の本質:比較による自己定義
心理学者のレオン・フェスティンガーは、「社会的比較理論」を提唱した。
これは、人間には自分を他者と比較したいという根源的な欲求があるという理論だ。
この理論によると、人は自分の能力や意見を評価する際、客観的な基準がない場合、他者との比較を通じて自己評価を行う傾向がある。
つまり、私たちは常に誰かと自分を比べることで、自分の位置づけを確認しているのだ。
実際、ソーシャルメディアの普及により、この「比較」の機会は爆発的に増加した。
Instagram上で1日に投稿される写真は約9,500万枚(Omnicore, 2021)。
私たちは日々、膨大な量の「他人の人生」と自分を比較しているのだ。
この比較の結果、私たちは時に優越感を、時に劣等感を感じる。
そして、この感情が「等量斉視」の実践を難しくしているのだ。
例えば、ハーバードビジネススクールの研究によると、ソーシャルメディアの使用時間が長い人ほど、自尊心が低下する傾向があるという(Journal of Experimental Social Psychology, 2018)。
さらに、スタンフォード大学の研究では、SNSの使用が他者との比較を促進し、幸福度を低下させる可能性があることが示されている(Journal of Social and Clinical Psychology, 2018)。
これらの研究結果は、私たちが他者との比較を通じて自己を定義する傾向が、デジタル時代においてより顕著になっていることを示している。
そして、この比較の習慣が、「等量斉視」の実現を難しくしているのだ。
なぜなら、他者との違いを常に意識することは、すべての人を平等に扱うという理想と相反するからだ。
SNS時代の皮肉:つながりが生む分断
ソーシャルメディアは、世界中の人々をつなぐ素晴らしいツールだ。
例えば、Facebookの月間アクティブユーザー数は28億人を超え(Statista, 2021)、世界人口の約3分の1が利用している計算になる。
しかし同時に、SNSは新たな形の差別や分断を生み出してしまっている。
その代表的な例が「エコーチェンバー現象」だ。
エコーチェンバー現象とは、同じ意見や価値観を持つ人々だけで情報を共有し、異なる意見を排除してしまう現象を指す。
SNSのアルゴリズムは、ユーザーの好みに合わせて情報を提示するため、この現象を加速させている。
Pew Research Centerの調査によると、アメリカ人のTwitterユーザーの80%は、政治的に同じ立場の人々とのみ交流している(2019)。
これは、多様な意見に触れる機会を減少させ、社会の分断を深める要因となっている。
また、「キャンセルカルチャー」と呼ばれる現象も問題だ。
これは、ある人物や企業の言動を問題視し、ボイコットなどの制裁を加える行為を指す。
一見、正義のように見えるこの行為も、時として行き過ぎた制裁になることがある。
実際、アメリカの成人の62%が「現在の社会では、自分の意見を自由に表現するのが難しい」と感じているという(Cato Institute, 2020)。
さらに、SNSは「炎上」と呼ばれる現象も生み出している。
これは、特定の人物や企業に対して大量の批判が集中する現象だ。
日本では、SNS上の誹謗中傷による自殺事件も発生しており、社会問題となっている。
総務省の「令和2年度 インターネット上の誹謗中傷への対応に関する調査研究」によると、SNS利用者の23.3%が誹謗中傷の被害を経験したと回答している。
これらの現象は、SNSが持つ「つながり」の力が、皮肉にも新たな形の差別や分断を生み出していることを示している。
つまり、テクノロジーの進歩が、必ずしも「等量斉視」の理想の実現につながっていないのだ。
脳科学から見る差別:無意識の偏見の正体
人間が完全に平等な判断を下すことが難しい理由は、私たちの脳の仕組みにも関係している。
脳科学の研究は、人間の無意識の偏見(アンコンシャス・バイアス)について、興味深い洞察を提供している。
ニューヨーク大学の研究チームは、fMRI(機能的磁気共鳴画像法)を用いて、人種の異なる顔を見たときの脳の反応を調べた(Nature Neuroscience, 2014)。
その結果、被験者が自分と異なる人種の顔を見たとき、扁桃体(感情や記憶に関わる脳の部位)が活性化することが分かった。
これは、私たちの脳が無意識のうちに「異なるもの」に対して警戒心を持つことを示している。
さらに、ハーバード大学のマヒザリン・バナジ教授らが開発した「潜在的連合テスト(IAT)」は、多くの人が自覚していない偏見を持っていることを明らかにした。
例えば、「白人」と「良い」、「黒人」と「悪い」という単語の組み合わせに対する反応時間が、その逆の組み合わせよりも短いという結果が得られている。
これは、多くの人が無意識のうちに人種に対する偏見を持っていることを示唆している。
このような無意識の偏見は、進化の過程で獲得された生存戦略の名残だと考えられている。
未知のものや「異質」なものに対して警戒心を持つことは、危険から身を守るために有効だったのだ。
しかし、現代社会においては、この無意識の偏見が差別や不平等の原因となっている。
例えば、採用面接において、面接官が無意識のうちに特定の人種や性別に対して偏見を持ってしまう可能性がある。
実際、アメリカの研究では、同じ内容の履歴書でも、「白人的」な名前の方が「黒人的」な名前よりも面接に呼ばれる確率が50%高いという結果が出ている(American Economic Review, 2004)。
これらの研究結果は、「等量斉視」の実現が、単に意識的な努力だけでは達成できない難しさを持っていることを示している。
私たちの脳の仕組み自体が、完全な平等を難しくしているのだ。
しかし、この事実を知ることは、逆に私たちに希望を与えてくれる。
なぜなら、無意識の偏見の存在を認識することで、それを克服するための努力ができるからだ。
例えば、グーグルやフェイスブックなどの大手IT企業は、従業員に対して無意識の偏見に関する研修を実施している。
これは、自分の持つ偏見に気づき、それを意識的に克服する試みだ。
また、AIを活用して採用プロセスから人間の偏見を排除しようという取り組みも始まっている。
例えば、Unileverはゲーム形式の採用試験を導入し、応募者の性別や人種に関係なく、純粋に能力だけで評価する仕組みを構築した。
これらの取り組みは、「等量斉視」の理想に近づくための一歩と言えるだろう。
完璧な平等は難しくても、科学的な知見を基に、少しずつ偏見を減らしていくことは可能なのだ。
グローバル化時代の等量斉視:文化相対主義との葛藤
グローバル化が進む現代社会において、等量斉視の概念はさらに複雑な様相を呈している。
異なる文化背景を持つ人々が日常的に交流する中で、「平等」の定義自体が問い直されているのだ。
文化相対主義の立場からすれば、ある文化における価値観や慣習を他の文化の基準で判断することはできない。
しかし、これは時として人権侵害を正当化する論理にもなりうる。
例えば、女性の権利に関する問題がある。
国連の「女子に対するあらゆる形態の差別の撤廃に関する条約」(女子差別撤廃条約)は、189カ国が批准している。
しかし、一部の国々では文化や宗教的理由から、女性の権利が制限されている現状がある。
サウジアラビアでは、2018年まで女性の自動車運転が禁止されていた。
この措置は国際社会から強い批判を受けたが、サウジ政府は長年「文化的な理由」を主張してきた。
このような状況下で、どのように等量斉視を実現していくべきか。
これは、国際社会が直面する大きな課題の一つだ。
国連人権高等弁務官事務所(OHCHR)は、「文化的多様性の尊重」と「普遍的人権の保護」のバランスを取ることの重要性を指摘している。
しかし、その具体的な方法論はまだ確立されていない。
AI時代の等量斉視:新たな差別の可能性と対策
人工知能(AI)技術の発展は、等量斉視の実現に新たな課題をもたらしている。
AIによる意思決定が人間社会に大きな影響を与える中、AIのバイアス問題が深刻化しているのだ。
MITのJoy Buolamwini氏らの研究によると、主要な顔認識AIシステムの精度は、白人男性の顔に対しては99%以上だが、黒人女性の顔に対しては65%程度まで低下することが明らかになった。
このようなAIのバイアスは、採用選考や与信審査、犯罪予測など、様々な場面で不当な差別を生み出す可能性がある。
対策として、以下のような取り組みが進められている:
1. データの多様性確保:
AIの学習に使用するデータセットの多様性を高める。
IBMは、100万以上の多様な顔画像データセット「Diversity in Faces」を公開している。
2. アルゴリズムの公平性評価:
AIシステムの公平性を評価する手法の開発。
GoogleのAI倫理チームは、「What-If Tool」というAIの公平性を可視化するツールを開発した。
3. 説明可能AI(XAI)の開発:
AIの判断プロセスを人間が理解できるようにする技術。
DARPAの「Explainable AI Program」など、各国で研究が進められている。
4. AI倫理ガイドラインの策定:
EUの「信頼できるAIのための倫理ガイドライン」など、各国・地域でAI倫理に関するガイドラインが策定されている。
これらの取り組みは、AI時代における等量斉視の実現に向けた重要なステップだ。
しかし、技術の進歩のスピードは速く、常に新たな課題が生まれている。
私たちは、AIがもたらす恩恵を享受しつつ、同時にその潜在的なリスクにも敏感でなければならない。
等量斉視の理念を、デジタル時代にも適用していく努力が求められているのだ。
経済格差と等量斉視:機会の平等vs結果の平等
等量斉視の実現を考える上で、避けて通れないのが経済格差の問題だ。
経済的な不平等は、教育や医療、就職などの機会の不平等につながり、社会の分断を深める要因となっている。
OECDの報告によると、加盟国の上位10%の富裕層が保有する資産は、下位40%の総資産を上回っている。
日本においても、厚生労働省の調査(2019年)では、世帯所得の中央値は約436万円だが、最も豊かな20%の世帯の平均所得は約1,060万円、最も貧しい20%の世帯は約255万円と、大きな格差が存在する。
この経済格差は、単に所得の差にとどまらず、人生の様々な側面に影響を与える。
例えば、教育格差の問題がある。
ベネッセ教育総合研究所の調査(2018年)によると、世帯年収900万円以上の家庭の子どもの大学進学率は約80%なのに対し、400万円未満の家庭では約40%にとどまる。
この差は、将来の所得格差にもつながっていく。
では、このような状況下で等量斉視をどのように実現していくべきか。
ここで問題となるのが、「機会の平等」と「結果の平等」の違いだ。
「機会の平等」は、全ての人に同じスタートラインを提供することを意味する。
一方、「結果の平等」は、最終的な成果や状況を均等にすることを目指す。
多くの国では、「機会の平等」を重視する傾向にある。
しかし、現実には生まれた環境によって既に大きな差がついている状況で、単に同じスタートラインに立たせるだけでは真の平等は実現できないという批判もある。
この問題に対する一つの解決策として、「公正な不平等」という考え方がある。
これは、ハーバード大学のジョン・ロールズが提唱した概念で、社会の最も不利な立場にある人々の利益を最大化するような不平等は許容されるというものだ。
具体的には、累進課税制度や社会保障制度の充実、教育の無償化などが、この考え方に基づく政策と言える。
しかし、どこまでの再分配が適切かについては、各国で激しい議論が続いている。
等量斉視の理念を経済政策に反映させることの難しさが、ここにも表れているのだ。
まとめ
ここまで見てきたように、等量斉視の実現は決して容易ではない。
人間の本質的な性質、社会制度の限界、テクノロジーの両義性など、様々な要因が複雑に絡み合っている。
しかし、だからこそ私たちは等量斉視の理想を追い求め続ける必要がある。
完璧な平等は実現不可能かもしれないが、その理想に向かって努力し続けることで、少しずつ社会を変えていくことはできる。
重要なのは、自分の中にある偏見や差別意識を認識し、常に自問自答を続けることだ。
そして、他者の不完全さにも寛容であること。
誰もが等量斉視の理想と現実の狭間で葛藤しているという事実を受け入れることで、より深い相互理解が生まれるだろう。
また、個人レベルの意識改革だけでなく、社会システムの変革も必要だ。
教育、法制度、経済政策など、あらゆる面で等量斉視の理念を反映させていく努力が求められる。
さらに、グローバル化が進む現代においては、文化や価値観の違いを超えて、普遍的な人権と多様性の尊重のバランスを取ることも重要な課題となる。
等量斉視の実現は、終わりのない旅路かもしれない。
しかし、その過程自体が私たちの社会をより良いものに変えていく力を持っている。
一人一人が自分にできることから始め、小さな変化を積み重ねていくこと。
それが、最終的には大きな社会変革につながるのだ。
我々は、人間らしさゆえの不完全さを認めつつ、より高い理想を目指して歩み続ける。
それこそが、真の意味での等量斉視の実践なのかもしれない。
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