過剰な平等意識が生む格差
平等という概念が最上位にあるという人が日本には本当に多いと思う。
というよりは、平等という概念がなんの疑いもなく刷り込まれている人がほとんどだという表現の方が合っているだろう。
その理由は、日本独特の教育が根底にあるからだと言い切れるのだが、そこから脱却できないまま生涯を終える環境に居続ける人の多さを指摘している。
結論から言おう。
平等にしていくという概念は格差を生み、過剰は平等意識は格差を拡げていく。
日本の教育の根本にある平均という概念
日本の教育の根本にあるものは平均で、オール3になる人を生み出すカリキュラムになっている。
少しでもはみ出そうとするものなら、削って平均に近いところを目指すように示唆される。
それは、突出してできる側であっても、できない側であってもである。
この平均的な人間を生み出す教育に関しては、様々な意見がある。
高度経済成長期には、どんな仕事に就いたとしても伸びることしかなかったので平均的なことができれば十分だったという見解が私にはしっくりくる気がする。
とはいえ、教育に関してどんな意見があろうと、そんなことはどうでもいい。
大切なことは、この平均を生み出そうとしている教育の仕組みに気づくことなく、そのままレールに乗っていく人たちがあまりにも多いということだ。
あるいは、気づいていたとしても、そのままなにも変えることなく生涯を終えていく人たちは、もっとたちが悪いかもしれない。
私は、平均的な人間を生み出すこのカリキュラムこそが、平等第一主義を生み出していると確信している。
ただし、教育に関して変えた方がいいとは思わない。
このままではいけないとか、なにかがおかしいと気づいた人にのみ、伝わればいいと思っている。
それほどまでに、教育業界には利権が蔓延っているし、なによりも変えることを望んでいない人たちが多すぎる。
自分で平均的な人間になることを選んでいるような人にまで、エネルギーを使う必要がないということだ。
ということで、くり返しておこう。
平均的な人間でいいと思っている人は、平等第一主義者であることが多く、私から見ればとてもつまらない人生を送っている人だ。
平等が格差を生む理由
平等が格差を生むことが理解できない人は、人の上に立ったことがない人だとも言い切れる。
こうやって書くと必ずといっていいほど、人の上に立つことが偉いのかとか、上から目線だという指摘が入る。
そういう人が、まさに平均的な人で平等第一主義者なのだが、そんなことは一言も発していない。
そういう人たちに向けて主張するなら、悲しいかな、人は生まれながらにして平等ではない。
というのも、能力差というものが少なからずあるからである。
生まれながらにして多彩な才能を持っている人もいれば、幼少期の努力によって能力を手に入れる人もいれば、ある程度の大人になってから圧倒的な努力で能力を手に入れる人もいる。
つまり、そもそも平等な立場になどなれるはずもないのに、教育制度上、無理やりクラス編成をしたり、共同生活を送らなければならない環境が最低でも義務教育の9年間あるということだ。
わかりやすく、小学校の頃を思い出せばいい。
あなたは全科目が得意だったかという質問に対して、ほとんどの人はそんなことはないと答えるはずだ。
それなのに、学校教育とはどういったものだったか。
苦手をなんとか克服させようとして、できない人に合わせようとする平等意識が根本にあったことを否定できないはずだ。
こういった平等意識が自然と刷り込まれていくのである。
ではそれがなぜ格差を生み、拡げていくのか。
答えは簡単で、平均的なことしかできない人ばかりの世の中には平均的なモノやサービスしか登場しないので、競争がなくなるからである。
競争がない社会が良い社会だと主張する人がいるが、競争がなければ進化や進歩はない。
なにをやっても一緒なら、努力する必要がどこにあるのか、そんな簡単なことにすら気づかない人が多いのである。
絶望的な平均的で平等な社会
オール3の人たちばかりの世の中だったら、どんな世の中になるのか。
オシャレでもなくダサくもないファッションで溢れ、美味しくもなく不味くもない飲食店で溢れ、可もなく不可もない空間で毎日を過ごす。
これが平均的で平等な社会の縮図だ。
そんな世の中のなにが面白いのだろうか。
オシャレなファッションで異性にモテたい、オシャレなファッションをデザインしたい、美味しい飲食店で食事をしたい、美味しい料理を提供したい、豪華な家に住みたい、イケてる家を設計したい。
こんな平均的ではなく、不平等な想いを抱いた人たちが、世の中を変えてきたわけだ。
もっというと、人間から欲望を取り除くことなどできない。
煩悩でもいいが、欲望がある限りは平均的では満足できず、平等な社会からはみ出す人間が必ず出てくる。
でも、それでいいのである。
理想的な平均的ではなく不平等な社会
平均的ではなく不平等な社会でもいいのには理由がある。
それは実に単純なことで、できないところはできる人がやればいいからである。
無理にできないことをやらせて平均的なものや平等なものを生み出そうとすることをするから、おかしくなるわけであって、得意な人に任せればいいのである。
そういった人たちが、圧倒的にいいモノやサービスを生み出してくれたのであれば、それをありがたく使わせてもらえばいいではないか。
得意でもない人が無理やりなにかをしようとするから、余計な手間が増えるのだから、できない人はできる人の恩恵を素直に受け入れればいいのである。
そんな人の施しを受けたくないといった頑固者は、だったら自分で生み出すことができるように圧倒的な努力をすればいいという、至極当然な話をしている。
究極を言えば、なにもしないのになにも困らず生活が一生できれば、それでいいという人もいるはずだ。
そういう人の考え方や生き方を否定するつもりは更々なく、そういう人こそ平均的ではなく不平等な社会を望まないといけないということである。
それなのに、なぜか無駄に抗おうとをしているので、こういった主張をせざるを得ないのである。
コンプレックスや劣等感は誰にでもあるが、それが間違った方向で爆発しているしか思えない。
私が主張しているこの感覚が理解できないこと、理解しようとすらしていないのがマズい。
ベーシックインカムという言葉を知らない人、ベーシックインカム制度を導入したら誰も働かなくなるという主張をする人は要注意だ。
まとめ
日本国憲法に定められている国民の三大義務は下記のとおりだ。
教育の義務(教育を受けさせる義務)
勤労の義務
納税の義務
この3分の2について触れた形になるが、なにも教育が悪いとか勤労に対して否定しているわけではないことは改めて主張しておこう。
日本国民の三大義務は全うすべきだ。
けれども、教育とは義務教育で学ぶことが全てではないし、勤労とは自分で考えて選ぶものだ。
どこにも違和感を覚えることなく、ただただレールに乗ったまま終着駅を目指すのと、自分で決めた道を進むことを選べるとしたら、あなたはどちら側にいるのかということを問うている。
ある程度、歳を重ねた人であればこの古い感覚の国民の三大義務から逃げ切れるかもしれないが、若い世代の人たちは同じような感覚でいると痛い目に遭うことをは宣言しておこう。
流されるがままの教育を鵜呑みにして自己形成をしてしまい、なにも考えずに周りの人に同調したまま勤労を始めると、終わりを迎えたときに後悔が残るだろう。
オール3を目指すのではなく、ずば抜けた特技が1つでもいいからある人を目指すべきだ。
そういう人には、ずば抜けた特技を最低1つ持っている人が集まってきて、イノベーションが生まれる。
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株式会社stakは機能拡張・モジュール型IoTデバイス「stak(すたっく)」の企画開発・販売・運営をしている会社。 そのCEOである植田 振一郎のハッタリと嘘の狭間にある本音を届けます。