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どうする家康の主人公である徳川家康の秘話

虎狼之国(ころうのくに)
→ 他国を次々に侵略する国のこと。

いつの時代にも争いは起きるもので、日本もかつては戦国時代と呼ばれた時代がある。

この時代が好きだという人も多いと思うが、かくいう私もその1人だ。

そして、毎年、NHKの大河ドラマでなにが放映されるかが話題になるが、戦国時代に活躍して歴史に名を刻んでいる人物が主人公になる場合も多い。

2023年は徳川家康ということが先日発表された。

ということで、徳川家康の秘話について書いていこうと思う。

徳川家康という人物像

ご存知のとおり、徳川家康といえば、1603年に江戸幕府を開いたという天下統一を果たした人物だ。

その後、1868年までの約260年余りの江戸時代の礎を築いた人物であることは周知の事実だろう。

1868年といえば、現在が2022年なので154年前のことだと考えると、そんなに昔のことではないと思うのは私だけだろうか。

そんな天下統一を果たした徳川家康について、どんな印象を持っているだろうか。

戦国時代や歴史が好きな人は知っていると思うが、徳川家康といえば、質素倹約に努め健康に気を遣う、いわゆる健康オタクとして有名な人物だ。

戦国時代の平均寿命は武士が42歳くらい、庶民は30歳くらいといわれており、江戸時代の平均寿命は32〜44歳くらいとされている。

そんな中、徳川家康は75歳まで生きたとされており、当時ではかなり長寿だった。

その要因が、質素倹約に努め健康に気を遣うという健康オタクの部分が大きいとされている。

一方で、新しい物好きという一面も持っていたため、普段は質素な食事をしていて,月に数回だけ様々な美味しい贅沢な料理を堪能していたという。

そんな徳川家康が愛した食べ物で現在も親しみのあるものとしては下記が挙げられる。

  • 麦飯

  • 天ぷら

  • 八丁味噌

  • 鳥獣類の肉

  • 奈良漬け

  • 草加せんべい

  • 安倍川餅

  • 折戸なす

  • わさび

  • 五目寿司

中でも、麦飯と八丁味噌は徳川家康が日頃から好んで食していたといわれており、特に麦飯のおかげで徳川家康は当時の平均寿命を大きく上回る75歳まで生きることができたと考えられている。

そんな徳川家康の影響力は大きく、草加せんべい、わさび、安倍川餅、五目寿司などは、徳川家康が好んだことで名産品となった料理や食材だといわれている。

徳川家康にまつわる3つの死亡説

とまあ、食通で健康オタクだったとされる徳川家康だが、その裏側で3つの死亡説があることも有名だ。

その3つを紹介していこう。

揚げもの死亡説

徳川家康の死因として語られる最も有名な説は、揚げもの、つまり天ぷらを食べ過ぎたことだというものだ。

江戸時代、素材を油で揚げた天ぷらは高級料理だったことは理解できるだろう。

徳川家康は高齢になっても油ものを好んだことで知られており、戦いの中で起居してきたこともあり、天下統一後は若いときに食べられなかったものを好んだということも一因だとされている。

中でも、鯛の天ぷらを好んでおり、そんな鯛の天ぷらを食べた徳川家康が食中毒を起こして死亡したというのが揚げもの説だ。

ただ、この揚げもの説は実は信憑性が低いといわれている。

その理由としては、家康が天ぷらを食べたのは亡くなった1616年(元和2年)4月17日の3ヶ月も前だったという記録があるのである。

食中毒が原因として時間が経ちすぎているというのがその理由だ。

ちなみに、当時の天ぷらは現在の衣をつけた天ぷらとは異なったものだった。

現在の衣をつけた天ぷらの調理法が考案されたのは徳川家康の死後で、徳川家康が存命だった当時の天ぷらは、現在の素揚げのような料理だったと考えられている。

とはいえ、当時の油はとても貴重なものだったため、徳川家康が天ぷらを好んで食すことができたのは権力者故にという部分は明確だろう。

胃がん死亡説

現在、最も有力視されているのが、胃がんでの死亡説だ。

2022年の現代でも死因の1つとして上位に登場する胃がんだが、有力視されているのには、もちろん理由がある。

それは、江戸時代の歴史文書に記された徳川家康の病状が重要なエビデンスになっているという。

江戸幕府が編纂した歴史書として、徳川実記という書物がある。

この書物は初代の徳川家康から10代目の徳川家治までの各将軍の治績が記述されており、歴史考察などにも利用されている貴重な資料だ。

この徳川実記では死亡前の徳川家康の健康状態が詳しく解説されており、そこから家康の死因が推察できるのである。

そこには、徳川家康の病状は、どんどん痩せていき、吐血、黒色便が見られ、お腹に手で触って確認できる程の大きいシコリがあるといったものだった。

記載されている徳川家康の症状は、胃がん患者に多くみられる症状と酷似している。

例えば、吐血や黒色便は胃がんなどの消化器に起こるがんによって消化管の中で出血した場合にみられる症状であり、胃のあたりに硬いシコリがあるのは進行した胃がんにみられる病気の状況なのである。

徳川家康に起きたこれらの症状が胃がんと関係していることから、歴史家の間では家康の死因は天ぷらによる食中毒ではなく、胃がんではないかという、この胃がん説が最有力だとされているのだ。

また、徳川家康が死を迎える前に急速に痩せていったことも、がんの影響で十分に養分を吸収できなかったことと関係しているとされている。

関ヶ原の戦い死亡説

3つ目は、関ヶ原の戦いで既に死亡していたという説だ。

戦国時代の武将には影武者がいたことはよく知られているが、徳川家康ほどの人物になると当然、影武者がいたというのが通説だ。

その理由は、忍者などによる暗殺対策や敵勢力の目をかく乱するためだ。

例えば、戦国最強と呼ばれた武田信玄が、弟やよく似た家臣を影武者として複数人揃えていたことは有名な話だ。

徳川家康も例外ではなく、大坂の陣の際、三男で後の2代将軍となる徳川秀忠と共に豊臣家を滅ぼすのだが、このときに陣を率いていたのは家康本人ではなく影武者だったという説があるほどだ。

そして、この関ヶ原の戦い死亡説は、本物の徳川家康は関ヶ原の戦いで戦死しており、その後は影武者がこの大役を担っていたとする説だ。

天下統一を成し遂げた後は、この影武者である徳川家康を生かしておくべき理由がなくなったことから、影武者を毒殺したというのである。

ただし、この第3の説は否定されているというのが実態だということも併せて書いておこう。

徳川家康が影武者と入れ替わった時期や入れ替わりを示す証拠などが一切見つかっておらず、歴史的事実として確認できないことが多すぎるからである。

また、家康が松平元康と名乗っていた三河時代から、影武者と入れ替わったであろうといわれるさまざまなタイミングが指摘されているが、基本的には否定されているのが現状だ。

ちなみに、大阪夏の陣での死亡説というのもある。

真田幸村率いる真田隊に追い込まれたというものだ。

真田隊3,000の兵が捨て身で徳川本陣に攻め込み、徳川家康もあわやの危機に直面したという。

本陣の馬印は倒され大混乱すると、圧倒的優位だとされていた徳川家康が一時は自刃も覚悟したが、なんとか体制を立て直して反撃し真田隊は敗走したという。

とまあ、これだけ書くと徳川家康がキレイにやり返したように思えるが、実態は違ったという見解もある。

徳川家康は自刃を覚悟しつつ、なんとか命からがら徳川本陣から脱出を試みたという。

その脱出方法は、棺(ひつぎ)で、徳川家康を棺の中に隠して大混乱の中を抜け出そうとしたというものだ。

ところが、運悪く真田隊の1人である後藤又兵衛がこの棺を怪しんだ。

怪しんだ後藤又兵衛は、その棺を槍で突いて、棺は槍で何度か貫かれた。

棺の中にいた徳川家康はなんとか槍から逃れようと試みたが、狭い棺の中ではどうすることもできず、家康は瀕死の重体となってなんとか脱出したという。

その後、回復することなく息絶えた。

戦自体は圧勝しているのに総大将である徳川家康が死亡するなどあり得ないと、慌てた側近たちが影武者を立てて、その後は影武者が指揮を取ったという説だ。

まとめ

個人的に徳川家康の好きな話の1つに、しかみ像の逸話がある。

これもそこそこ有名な話なので、知っている人も多いと思うが、徳川家康の生き方を反映した話だ。

徳川家康の三大苦難の1つである、三方ヶ原の合戦で、武田信玄の軍勢から命からがらに敗走した徳川家康は、負けたばかりの惨めな己の姿を絵師に描かせた。

それを常に自分の手元に置いて、自分のおごりへの戒めとしたというのが、徳川家康三方ヶ原戦役画像、いわゆる、しかみ像だ。

しかみ像でググればいくらでもヒットするので、是非一度は見てもらいたいのだが、この逸話が本当だとすると現在にも通ずるものがあるように思うのである。

まあ、このしかみ像の逸話も実は眉唾だという説も最近は多いのだが、長くなり過ぎてしまうので、このあたりについても改めて別の機会に書くとしよう。


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株式会社stakは機能拡張・モジュール型IoTデバイス「stak(すたっく)」の企画開発・販売・運営をしている会社。 そのCEOである植田 振一郎のハッタリと嘘の狭間にある本音を届けます。