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数年前に味わった祖母の死で感じたこと

四鳥別離(しちょうべつり)
→ 親子の悲しい別れ。

もう何年前になるだろうか。

私はそもそも親族との付き合いというのが深くない人間なのだが、それでも少なからずお世話になったと思える人たちはいる。

そんな人たちが相次いでこの世を去っていったタイミングがある。

中でも鮮明に覚えているのが、母親側の祖父と祖母との死別だ。

両親の介護をする母親の姿

私の母親側の祖母の晩年は寝たきりだった。

その期間は10年まではいかなかったが、それでも6〜7年はずっと寝たきりの状態だった。

それもただただ寝たきりだったわけではなく、意識はあるのだが全く会話はできず食事もままならないという、いわゆる植物状態だった。

そんな状態で、私の母親の生まれ故郷である広島県庄原市の隣にある三次市というところの介護施設にずっといた。

私の母親は広島市内にずっと住んでおり、とどのつまりそこが私の実家なのだが、そこから週2回ほど介護施設に通っていた。

というのも、介護施設にいる祖母の様子を見るのと、そこから少し離れた母親の実家には祖父が1人でいたので、世話をするためである。

祖父は死ぬまで本当に大きな病気をすることもなく、100歳を超えるまで生きていたので本当に大往生という感じだったのだが、老人は老人だ。

なにかしらの世話は必要ということで、私の母親が週に2回ほど、広島市内から三次市、庄原市まで車で片道2時間弱かけて通っていたのである。

そんな状況だったころに、私が仕事を辞めて広島に戻ってきたという時系列だ。

広島に10年以上振りに帰ってきたとはいえ、特になにかするということもなく、ただただ1日が過ぎていくという感じだった。

なので、母親が週に2回ほど長距離運転をしている姿を見て、運転くらいは自分がしようと思い、いつからか私も頻繁に同行するようになった。

その道中では、いつか私も今の母親と同じようなことをしないといけないのだろうなとなんとなく思っていた。

そう、人は必ず老いていくし、最期はこの世を去る。

誰もがいつかは通る道なのだと、なんとなく思っていた。

祖母の介護生活で感じたこと

そんな祖母の姿が見れなくなるまで、しばらく時間はあった。

正直、生かされているだけの姿を見ていて、いつも複雑な気持ちが湧いていた。

こんな状態で生かされていることは、祖母にとって幸せなのだろうかと。

そして、そんな話を母親とも何回かしたことがある。

母親は、祖母が介護施設に入らないといけなくなったタイミングで、祖母にある質問をしたのだという。

その質問は、介護施設から帰れなくなるかもしれないが、それでも生きたいかというような内容だったと思う。

もちろん、そこまでストレートに聞いてはいないと思うが、祖母の回答は生きたいというものだったそうだ。

それで、母親は祖母を介護施設に入れることを決断し、自分自身もそれに寄り添うことにしたのだという。

私が意地悪な質問をしたことも、よく覚えている。

今の状況になってみて、施設に入れて良かったと思うかというものだ。

週に2回もわざわざ広島市内から片道2時間弱もかけてお見舞いに来ることが非効率なことやこんな状況で祖母が幸せだと思うのかといった辛辣な質問も母親に投げかけた。

性格が悪いなと自分で思いつつも、母親は複雑な表情になったのを覚えている。

コミュニケーションが取れる状況で生きたいかを聞いたら、それはほとんどの人が生きたいというだろう。

そんなことも母親に投げかけている自分は本当に性悪だと感じた。

ただ、誤解してもらいたくないのだが、別に母親の選択肢を否定したかったわけでも、傷つけたかったわけでもない。

なぜ、私がこんな質問をしたのかというと、逆の立場になったときに同じようにして欲しいのかを問うためだった。

実際に、その質問も母親に投げかけたこともある。

質問というよりは、自分が逆の立場になったとしたら、介護施設で生かされるような選択肢を取らないと思うという感じだ。

週に何度も見舞いに来るのも大変だし、なによりも不毛だということを伝えた。

母親は、それで大丈夫だと答えたが、そのときに味わった感覚というのはなんとも複雑で言語化するのが難しい。

祖母の死で感じたこと

そうこうしているうちに祖母がこの世を去り、祖父が1人残された人生を7〜8年過ごすようになるのだが、今でも鮮明に覚えているのが、祖母を火葬場で見送るときのことだ。

庄原市は広島の中でもかなりの田舎なので、おそらく火葬場はそこ1つしかないと思う。

そんな火葬場がリニューアルされており、まさに初めて火葬されるのが祖母だった。

それがいいことなのかどうか微妙だとは思ったが、親族の中にはいいことだという人も多く、それもまた複雑な気持ちにさせた。

そんな状況で最も印象に残っているのが、火葬するときのスイッチだ。

そのスイッチは押ボタンになっていて、ボタンを押すと火がつくという仕組みだ。

つまり、ボタンを誰かが押さないといけないのだが、施設の人がそのボタンを押す役目を祖父に依頼していた。

祖父は、あぁ〜という感じで寄り添われながらボタンを押した。

その姿を見て、なぜか涙が止まらなくなったことをよく覚えている。

本当になぜかよくわからいのだが、いたたまれなくなった私はその場にいることができなくなり、人気のいない場所に行った。

祖父も数年後にこの世を去るわけだが、祖父がいなくなるまでに祖母とどういう経緯で結婚することになったのかなど、結局聞くことはなかった。

つまり、どういう想いを持って、どんな感情で晩年を過ごしていたのかは知る由もない。

ただ、どうでもいい人ではなかったように思う。

めちゃめちゃ仲の良いという感じでもなかったが、おそらくそれなりにいい感じの関係だったのではないだろうか。

そんな人がこの世を去り、火をつけるときのボタンを押すという場面を自分に置き換えたときに、それこそ私には別のボタンが押されたように涙が止まらなかった。

祖母が植物状態だったことは何度も訪れていて確認もしているし、もう長くないということも十分に理解していたつもりだ。

もちろん、亡くなったときに涙は出たし、長い間寝たきりでお疲れさまという気持ちもあった。

亡くなる数日前には、不思議な体験もした。

いつも帰る前に、じゃあ帰るねと祖母の肩を叩いたり握手をしたりと、ちょっとしたボディータッチをすることが習慣になっていた。

けれども、その日はちょっと祖母の様子が違った。

いつものように握手をしたときに、今までにはないくらい強い力で祖母が握り返してきたのである。

そして、いつもはそんなに長い時間、目が合うこともないのだが、その日に限ってはしばらく強い眼差しで祖母が私の方を見つめていたのだ。

ちょっとした違和感を覚えたけれども、特に誰かにも伝えず、その2日後に祖母はそっと息を引き取った。

そんな状況もフラッシュバックして、これが人の死というものだという、私の力ではなにも太刀打ちできない状況に、ただただ涙したのだと思う。

もし、私に一生寄り添うと決めた人がいて、その人が先にこの世からいなくなったときに、私は火をつけるボタンを冷静な状態で押せるだろうか。

とても自信がなかったことを記憶している。

祖父の死で感じたこと

祖母の死後、祖父が完全に一人暮らしになっていたので、引き続き母親とともに世話をしに行く日々は続いた。

食事に連れていったり、部屋の片付けをしたり、粗大ゴミを焼却施設に運んだりと、個人的にはなんだかんだ楽しめていた日々だった。

そんな祖父も祖母が亡くなってからしばらくして、この世を去った。

もちろん、同じ火葬場で焼かれるわけだが、そのボタンは母親が押していたと記憶している。

母親は完全に両親がいなくなったわけだ。

その姿を自分に重ね合わせたが、不思議とそのときには涙が流れることはなかった。

淋しさがなかったわけではないが、私の中では祖母の死の際に祖父がボタンを押したところで完全に切り替えができていたのだと思う。

次にボタンを押すのは私かもしれないと。

まとめ

生命は紡がれていく。

父親と母親がいて、当然そんな父親と母親にも父親と母親がいたわけで、そのくり返しだ。

生まれていく生命があれば、消えていく生命がある。

どちらも同じ生命なわけだが、その生命の状況で感情は全く異なる。

生まれてきた以上、いつかは誰とも別れるときが訪れる。

限りある生命を、どうやって紡いでいくのかは、あなた自身が決めていくことだ。


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株式会社stakは機能拡張・モジュール型IoTデバイス「stak(すたっく)」の企画開発・販売・運営をしている会社。 そのCEOである植田 振一郎のハッタリと嘘の狭間にある本音を届けます。