見出し画像

もしあの時、母をねだらなければ父は生きていたかもしれない

義理の母から虐待をうけていた日々から、19年が経った。

私はひとりで3LDKのマンションをローンを組んで買えるほど、特定のパートナーを持たなくてもいいと考えるほど、1人で生きていく覚悟を持った大人になった。

人生の歯車を狂わせた彼女に負けないくらい。その記憶に苦しむことがないくらい、強く。もう思い出すことなく、人生を歩んでいけると考えていたのに。

ある日曜日の夕方、自宅で過ごしていると携帯に親族から電話がかかってきた。たわいもない要件ならメールがくる。電話はなのは、何か緊急事態が起きたのかもしれない。

電話をとると、やけに慌てている様子だった。話を聞いてみると、私の義理の母だった人が「父の遺産を分けてほしい」と親族の家に上がりこんできた、とのことだった。


♢♢♢♢♢♢♢♢♢♢♢♢


私は10歳まで父子家庭で育った。その頃に父が再婚した。その再婚相手だったのが、まさに今親族の家に上がりこんでいる彼女だ。

10歳から3年間、彼女から人格や存在そのものを言葉で粉々に破壊されるような精神的虐待。手足での暴力。日によっては本、リビングに置いてある物、傘、包丁を使って身体を痛めつけられる肉体的虐待をうけていた。傷の程度がひどいものは「転んだとウソをつけ」と指示をされ、病院に連れていかれることもあった。

時には、真冬の夜にベランダに放り出され、身体を刺すような寒さに丸まって耐えたこと。湯船に浸かっていると急に風呂場に乗りこんできて、私の頭をつかんでお湯につけ、溺れさせようとしたこと。私の食事だけが、小中学生がするイジメのように与えられなかったこと。白カビがついたパンを毎日与えられるから、それを食べることに何の感情も持たなくなった。

父に虐待の事実を打ちあけると、すぐに離婚した。その後すぐに癌がみつかり、亡くなった。彼が死にむかって進んでいく過程は、じわじわと蝕む病魔が身体を燃えつくし、灰になった身体がサラサラと風にのって消えてしまうような儚い光景だった。

父と義理の母との結婚生活は、子供の目からみても決してよいとは言えない、ただ”夫婦”という名前を与えられただけの関係。それ自体が、彼の身体を蝕む病魔の炎だったのかもしれない。

私。義理の母だった人。これを繋いでいた父はとっくにいない。戸籍からは抜けていて縁が切れているはずなのに。時間をかけながら、あの記憶の数々を思い出さないようになっていたのに。

縁が切れたと思っていたのは、私だけだったのだろうか。一度だけ戸籍上の家族になった。過去に一緒に暮らした事実。父の再婚相手。父が残したお金。そんな大人の事情が関わるものたちで、やんわりと繋がっていたのだろうか。

彼女が、急に平穏な日常に土足で踏みこんできた。手間暇をかけて育てた色鮮やかな花を、ぐちゃぐちゃに踏みつぶすみたいに。


♢♢♢♢♢♢♢♢♢♢♢


親族は電話口で「収拾がつかないから」と、助けを求めているようだった。

黒の長袖トップスに、ジーパン。タイミングよく、人に会っても問題ないシンプルな服をきていた。カギと携帯電話だけを握って玄関をでた。3段ある立体駐車場の、1番下の段にある車を出す。車を地上にあげるまでの間、つま先を上下させて地面を鳴らしていた。

親族の家までは、車で10分ほどの距離にある。その時間がスローモーションのように流れる。なかなか進まない時間や前方の車に対して、ハンドルの上で人差し指をならず動作が止められなかった。

もし10歳の私が、母が欲しいとねだらなければ父はあんな女とは再婚しなかっただろう。そうであれば父はまだこの世にいて、ときどき老いた父とお酒を酌み交わすような親子関係を築けたかもしれない。

運転席から沈み、欠けていく赤い夕陽を眺めながら、取り戻せない過去について思いをめぐらせていた。


※この文章は「ノンフィクション」と「フィクション」が混ざっています

▼運営ブログ
美しくなければ生きていけない
https://seina7.com/

▼SNSはこちら
・Twitter
https://twitter.com/st_0905

・Instagram
https://www.instagram.com/seina2500/?hl=ja

・Facebook
https://www.facebook.com/utsukusikunakerebaikiteikenai/



最後まで読んでいただき、ありがとうございます。あなたの何気ないスキがモチベーションに繋がります。売上金・サポートの一部は動物愛護団体へ寄付しています