私の父
父はバツ3。女性にモテた。
身長182cm。母親ゆずりのハッキリした顔立ち。中学・高校時代は陸上に打ちこみ、県大会まで出場。法政大学、法学部卒。卒業式らしき写真には、5〜6人の同級生に囲まれた父が中央にいた。当時はやりのパンチパーマ姿で。
矢沢永吉と安全地帯のファンで、学生時代からギターを弾いていた。故人の秘密を勝手にみるのは悪い気がして捨ててしまったが、10代後半から30半ばまで書き続けた日記には、恋人にむけた手作りの曲が何ページにもわたり残っていた。もちろん同じ人にではない。
大学卒業後、ホテルのベルボーイとして就職。そこから40代半ばで課長になり、48歳でホテルの総支配人まで務めた。私を育て、家族むけマンションも購入できる、いわゆる「3高」がそろった優秀物件。
2月14日には、いくつかチョコレートを抱えて帰宅した。
両手のひらにおさまる茶色い箱をあけると、父の名前が書かれたチョコレートがあった。紙の緩衝材に包まれている。きっと「美味しかったよ」と嘘をつくのだろうと想像しながら、口にした。
装飾品は、高価な財布、時計。車はベンツを好んだ。90年代製で、横幅が広い。艶のある濃紺で、広い車内。助手席は私の定位置だった。
祖母の家に遊びにいくと、父はかならず車で迎えにきた。すぐコンビニに寄り、買い物をするのがお決まりの流れだった。「好きなお菓子をひとつだけ買っていい」、というルールがあったからだ。
コンソメ味のポテトチップスだったり、食べきりサイズのチョコレート菓子だったり。父が住むマンションに着くまでの帰り道、助手席に座って食べるのが習慣だった。
その道中で「あの姉さんはどうしたの?」と聞いた。
お姉さんは父の部屋の上階に住んでいて、当時6歳だった私と同じくらいの息子がいた。お姉さんと息子はたまに父の部屋に遊びにきては、一緒に食事もした。でも、最近顔をみていない。父は「そんなことは知らなくていい」とだけ言った。これ以上聞いてはいけない空気を感じた。
小学校の入学式の日。父がベンツのクラクションを鳴らしながら校庭に入ってきたのを、廊下の窓からみていた。先生とさようならが済んだ瞬間、父のもとに走る。
まるで有名人がきたように、同級生たちが一斉にかけよっていった。「せいなちゃんのパパ?」という質問に「そうだよ」と数えきれないくらい答えた。
そんな「自慢の父親像」が崩れはじめたのは、継母と父が別居をして、父と2人暮しをはじめた私が12歳のころ。
体育の授業でバスケットボールをしていると、体育館に電話が鳴った。受話器をとった担任に手招きをされる。電話にでると父からだった。
「とりあえず帰ってこい」
初めて学校に電話をかけてきて言われたのが、この一言。どうしたのかと帰宅をして理由を聞くと「胃ガンと診断された。心細かったので早く帰ってきてほしかった」という。「呼び出して悪かった」と謝るので「授業がつまらなかったからいいよ」と返した。
その後ガンは胃からはじまり、肺、小腸にまで転移。入院生活は1年以上続いた気がする。「家に帰りたい」という父の希望を尊重するため2007年12月上旬、在宅介護に切りかえた。
愛する人が側にいれば、世話をしてくれたかもしれない。バツ3の宿命か。誰ひとり父の側にはいない。でも、あなたが悪い。過去の失敗から反省しなかったのだから。
ちょうど引きこもりで不登校だった私が、父の世話をすることになった。14歳だった。
父が「パンが食べたい」と言うので、買い物に出掛けた。具体的にどんなパンが食べたかったのか、要望はない。味覚を感じないから、思いつかなかったのかもしれない。スーパーのパン屋、商店街にあるパン屋をめぐり、クリームが挟まったパン、ジャムがのったパンなど。よさそうなものを4〜5種類買ってみた。
買ってきたパンをひとつずつ見せると「こんなものが食べたいんじゃない」と、私にむかって2つ叩きつける。残りは床に叩きつけた。悔しそうに泣いていた。
その日の夜、父の部屋からカーペットの床に何かがぶつかる音がした。一定のリズムで続いる。家中に響く、低い音。どことなく壁、ドア、床が音の衝撃で振動していた。
足音をたてずに自室を出てる。父がいる寝室から光が漏れ、床が照らされていた。テレビの音も、会話の音もしない。床を踏みならしているんだろうか。
その音は21時くらいから、電話をかけて助けをもとめた介護士がくる夜中の2時頃まで続いた。
その間、手伝いにきていた祖母と和室に身をよせていた。障子をしっかり閉めて、オレンジ色の常夜灯をつけて。隣にいた祖母に目をむけると、正座をしてうずくまり、両手を握りあわせていた。
悪寒がした。どこかで経験したような気がする。記憶をさかのぼってみると、父と継母のケンカの声、ものが何かに当たっている音を自室から聞いていたときと同じだった。
「ものを盗まれた」と一点張りをして、警察に電話をかける父。自宅にきた警察官2人に癇癪(かんしゃく)を起こして「とりあえず落ち着いてください」と、言われている父。
苛立ちをぶつけるために、私をライターで炙る父。夢か現実かわからない話をする父。ここには到底書けない発言をする父。
これらの出来事を、ただ見ていた。
*****
大晦日の夜、20時21分。私が14歳のとき、父は50歳でなくなった。
父の容態をみるために大学病院にいき、帰宅をして部屋着に着替えると、固定電話がなった。受話器をとると、伯母だった。リビングの隅で、飼い犬のトミーが鳴いていた。
10分もしないうちに、迎えの車がマンション前に到着したという電話がきた。猫の絵がプリントされた黒いスウェットに、ハーフパンツのまま玄関を出る。まともな服は洗濯待ちで着られなかった。
車に乗りこむ瞬間、冷たい空気が頬を撫でた。高速道路に乗り、錦糸町のICで降りる。大通りの両側にならぶ店は、シャッターが降りている。人の姿はない。
病院に到着するまでの間、同行した親族は口を開かなかった。私も開かなかった。車のガラス越しに、黒い空をみあげていた。灰色の雲。点々とした星。空気を吸いこむと、鼻だけではなく気管までツンとしそうだった。
父がなくなる直前に書いた手紙が残っている。
かすれた文字で「せいなへ。」とだけ書かれている。最後の「。」は丸にならず、弱々しい線状になっている。この続きはない。
父がなくなって13年。手紙は引き出しの奥のほうにしまってある。
チラリとみては、引きだしに戻す。そして、父がいない当たり前の日常に戻っていく。
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