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大量のお弁当が毎日捨てられていく姿を、私たちは、ただ眺めているしかないのか。
お弁当が捨てられる話といえばコンビニやスーパーのことのように思うかもしれないが、この話はもう少し厄介なできごと。
売り物ではないお弁当だからこそ、捨てることしか選択肢のないお弁当の話だ。
話に入る前に先に伝えておきたいのは、この話で誰かを責めたいということではない。
どうにも解決しないこのジレンマを、みんなとなら解決できるかもしれない。
そんな思いから、ここに書くことに決めた。
だから、誰も責めないでほしい。
お弁当が、毎日大量に、余る現場
先日、起業セミナーに参加をしてくれた友人が、僕の登壇が終わったあとに駆け寄って、ふと話を始めた。
コロナ陽性で療養しているホテルで仕事をしているんだけれども…
行政がその人たちのために、お弁当用意してくれているのね。
でも、
毎日大量につくられているお弁当が、
誰の手も付けられないで、
大量にそのまま捨てられているの。
これ、何とかならないかなぁ。
その彼女は、右手にお弁当が何個も入った袋を持っていた。
「自己責任で持って帰ってもいいよ」
そう言われ、放っておけば確実に捨てられるそのお弁当を、ただゴミにすることができない気持ちもあり、持ってきているという。
僕が以前に音楽イベントのバイトをしていた時も、現場でお弁当が余った。
それを持って帰っていいよと言われて、アルバイトの僕らは、喜んで何人分も持って帰った。
しかし今回は、そんな量じゃない。
持って帰るには限界があるほどの数。
そしてそれが、
毎日のように、何千食も。
きっと、全国で起こっていて、それが二年以上続いていて、これからもずっと続くという事実。
想像するだけで、いたたまれない。
そして、誰も手のつけられていないお弁当を開いて、ごはんやおかずをゴミ箱に捨て、プラスチックの容器に分けて捨てる作業をする人がいる。
想像するだけで、何の温度感を感じられない辛い作業だ。
きっと、何かの感情を持っていては、その作業はできない。
こんな作業に従事する人たちもまた、しわ寄せの果てに生まれた、働きがいを感じられない負の感情労働といえる。
同じ今を生きる人として、その作業を押しつけてしまい、申し訳ない気持ちになる。
子供たちに押し付けられる、食品ロスの罪悪感
先日、うちの子の学校で、ある学年が突然学級閉鎖になった。
そう、コロナの感染で、3時間目から下校するというのだ。
そこで何が起こるのか?
そう、余った給食が、他の学年に回ってくるのだ。
それはそれは、すごい量が回ってくるらしい。
子供たちが食べられない量にもかかわらず、子供たちはご飯を必死に食べようとする。
食べられない量を、残さないようにがんばって食べようとする。
子どもたちも、
自分たちが食べないと、
ごはんが捨てられることを、
知っているから。
子どもたちに何の責任もない。
でも、責任が回ってきてしまっている。
良かれ、なのか、仕方ない、なのか。
そして、子どもたち自身の手によって、食品ロスを生み出したという敗北感だけ残ってしまう。
こんな理不尽な状況は、1回や2回どころでは済まない。
捨てるためのお弁当をつくる人、手を付けていないお弁当を捨てる人
僕は彼女に相談されて、すぐに出せる答えを持っていなかった。
行政の仕事もしているし、そこそこ長い年月を生きていると、いろいろわかってしまい、仕方ないという気持ちのほうが上回ってしまう。
なんだろう、この、自分がダメな感じは。
起業のセミナーをした後だけに、僕も普段より一層の敗北感を背負う。
そのお弁当は行政が用意したもの、つまり、税金。
給食もまた、みんなから集めた材料相当分に加え、作る環境に税金の補助が入っている。
売ってるお弁当とは、違う点だ。
そもそも税金だし、みんなのお金だし、それを配ったっていいじゃないか。
僕も一般人のひとりとして、そう思う。
ただ、用意をした人に責任があるから、それを配ると、配った人に責任が生じてしまう。
だから、自己責任で持ってかえっていいよ、という念が押されるのだが、それも、身元がわかっていて関係がわかっているし、状況を理解しているからできることだ。
もし、ご飯が余っていると告知をして、知らない人がどんどん人が集まってもそれは大変なこと。
余っている事実をあまり公表したくない運営の立場もあるだろう。
だからといって、足りなくても問題になる。
コロナに加えて余計なトラブルなんてもうゴメンだと思っているから、捨てたほうがまだマシだと思うことだろう。
起きた事実だけを取りだして、ニュースや問題になるのはとても避けたいことだ。
僕も毎月のようにいろいろなイベントの運営をしているから、こういう気持ちが痛いほどわかる。
でも、やっぱりこれは、違う。
毎日、何万人もの人がコロナに感染し、ホテルで療養し、その分のお弁当が作られ、そして捨てられていく。
捨てられるためだけのお弁当を作らなければならない人がいる。
その弁当屋さんも、それを作っている生産者の方々も、捨てられるだけのためのお弁当を作り続けるなんて…
このどうにもならない気持ちは、どこに向かえばいいのか。
毎日のようにこの状況を見て、彼女は僕に相談をしてきた。
僕よりももっと、その状況に行き場のない気持ちを持っていたはずだ。
これはまるで、ファストファッションと同じ状況だ。
これからも、ずっと捨てられて続けるのか
この話を聞いてから、僕の中でずっとモヤモヤしている。
何が解決できるだろうと、僕なりに考えているが、まだ答えは出てこない。
できることの1つは、こうして、まず事実をシェアすること。
そうすれば、これを見た人から、何かアイディアが出てくるかもしれない。
何か、身近でアクションをしてくれるかもしれない。
これまでも、そうやっていろいろなことを解決してきた。
食品ロスを減らすための取り組みには色々ある。
フードシェアリングサービスというものがある、
お店で売れ残った商品を、安くして買えるサービスだ。
子ども食堂があったり、高齢者の配達サービスなどもあったりするわけだから、あとはデリバリーの問題なのかもしれない。
コンビニが引き取っておいてくれないだろうか
デリバリーさえできれば、希望者に届けられないだろうか。
冷凍したり保存することができないだろうか。
こういった社会課題を事業で解決していくことを日々やっているのだが、ひとつ、とっても難しいポイントがある。それは、
善意でやった人が、悪者(被害者)になってしまうケースだ。
だから「余計なことをしないで欲しい」と言われることも多い。
…本当に余計なことなのだろうか。
お金、所有、責任、リスク…
僕らはいつから、そんなものに支配されて、ちょっとしたアクションすら取れなくなってしまったのだろうか。
毎日の食事に困っている人がいて、フードロスが世界一ひどい国。
目の前で捨てられるそのお弁当を、シェアすることもできない。
これを、ただ見ているだけなのだろうか。
まだまだコロナが続く。
そして、これからもパンデミックは、必ずやってくる。
全国で、全世界で同じようなことが起こっている。
今この機会に、みんなで必死に考えないと、これからの未来、ずっとお弁当は捨てられていく。
いまはお弁当の話だけれど、同じような矛盾がたくさん生まれている。
いまの私たちが考えぬき、次の時代の経験値として残すことが私たちの仕事じゃないだろうか。
結果としてすぐに出なくとも、事実を知り、考えることこそに、意味があるんじゃないだろうか。
そんな想いに駆られている。
最初にも書いたのだけれども、これは誰かを責めたいわけじゃない。
そんなことをしても、何も解決しない。
社会課題の多くは、そういった矛盾らだけことが多い。
犯人捜しをしているくらいなら、シェアでも何でも、何かひとつでもアクションをしたほうがいいと思う。
こうしている間にも、この矛盾が誰かの負荷に変わっている。
今日もまた、お弁当をつくる人と、捨てる人の心が削られていく。
子どもたちの、敗北感を増やしていく。
私たちは、この状況を、ただ眺めているしかないのか。
いや、やれることはたくさんあるはずだ。