世界はきみを入れる容器ではない。 ~池澤夏樹著「スティル・ライフ」のこと
理系と文系、なんて分けるのは時代遅れなのでしょうか。でも、僕のような完全な文系人間からすると、理系の人たちというのは、本当に人種が違うかのような気がするのです。というか、そんな気がしていました。
どうして彼らは、科学とか、数学とか、そういうものに興味を持てるんだろう? ずっとそう思っていたのです。
本書の主人公「僕」は、染色工場でアルバイトをしています。そこで、自分よりも少し年上の佐々井という青年と出会う。
佐々井君というのはとにかく不思議な人です。彼はバーでお酒を飲んでいるときに、宇宙のかなたで爆発した星の粒子が地球に飛来して一瞬光るのを見ようとしたりします。いろいろな山の写真をスライドに映して、延々とそれを眺めていたりします。株でお金を稼ぐことに、抜群の才能があります。
「僕」はこの佐々井君に頼まれて、彼が株の取引でお金を稼ぐ手伝いをする、そんな物語です。
再現性と反復性
この作品のテーマを一言でいえば、それは「再現性と反復性」だと思うのです。
科学における再現性とは、ある法則に従えばそれが何度も起こるということです。再現性なき法則は科学とはいえませんよね。科学的に、論理的にものを考えるということは、その理屈に再現性を求める、ということです。
もしもある法則に再現性があれば、それは発見です。だから僕たちはもしそういうものを見つけると、つい嬉しくなってしまう。
一方、再現性とよく似たものでありながら少し違うのが反復性です。
反復性とは、同じことが繰り返されることです。そして僕たちは同じものの繰り返しに遭遇すると、退屈してしまう。
さて、たとえば、料理を作るとしましょう。あなたはその料理の名前を知っている。レシピも持っている。材料も揃えました。以前に何度も作ったことがある。
そうしてあなたが作った料理は、果たして以前に作った同じ料理と、本当に全く同じ料理になるでしょうか。何度も作ったことのある料理ならば、ほとんど全く同じものができるかもしれない。でも、完全に同じではありませんよね。
何を細かいことを、と思うかもしれません。そんなことどうでもいいじゃないか、と。
だとしたら、僕たちはなぜ流れ星を見たときに少し嬉しくなるのでしょう。流れ星なんて、一瞬、夜空に一筋の光が起こるだけです。夜の時間の長さに比べれば、夜空の広さに比べれば、流れ星が一瞬一筋光ったとしても、それは光っていないのと変わらないはずなのです。
だけど、僕たちはその一瞬に特別なものを感じます。だから嬉しくなります。そこで「何を細かいことを」とは言わないわけです。
でも、そう考えると今度はあらゆる特別なものが実は特別なんかではない、ということになってしまうでしょう。なぜなら、そんなことを言ったら世の中特別だらけになってしまうからです。
夜空を見上げて流れ星が光る瞬間と、いつも通りの夜空が見えるということは、実は同じくらい特別だ、ということになります。いつも通りの夜空のように見えても、厳密に言えばいつも通りの夜空なんてものはあり得ないからです。
というわけで僕たちは、流れ星を喜ぶように毎日の当り前な夜空を楽しむことができません。レシピ通りに作った料理のほんのわずかな違いを驚くことができずに、同じものができたと思ってしまうのです。
なぜでしょう。それは、僕たちが出来上がった料理という現象そのものを見ているのではなく、料理という現象の反復性を見ているからなのです。夜空に流れ星が流れる反復性と、いつもと同じ夜空の反復性を比較しているからです。
佐々井君はたくさんの山の写真をスライドに映して眺めます。彼が眺めているのは、ただの山の写真ではありません。どの山も特別な山なのです。どれもが特別な山なのに、その特別な山が「山」という言葉で全部同じものとされてしまう、それが彼には面白いのです。
「山」の反復性を解体していく、そうすることによって見えてくる山の本質があるのです。
大事なこととはなんなのでしょう。それぞれの山がそれぞれ違う、ということでしょうか。それとも、それぞれ違う山がある意味では同じだ、ということでしょうか。
「僕」は染色工場で働きながら思います。同じ色ができないとイライラするよりも、毎回できるわずかな色の違いに合わせて商品を作ればいいのに、と。
もちろんそういうわけにはいきません。工場というのはまさに反復性が、特別なことを日常的にすることが重要なのです。
そう考えると、科学、というのはある意味不思議です。なぜなら、特別なことを、それが特別じゃないように説明することなのですから。つまり、再現性です。
だから、中学高校時代の僕は理科や科学の面白さがわからなかったのです。それは、現象の反復性だけを見ていたから。特別じゃなくなった、当たり前の部分だけを見ていたから。
でも、再現性と反復性は違うのです。
科学と文学
一方、小説のような、物語、文学はまさにその逆です。当たり前だと思っていたことが実はそうじゃないんだ、と気づかせてくれること、物語の、文学の魅力はそこにこそあります。
ただ、本をよく読む人ほど納得してくれると思いますが、小説というのはたくさん読めば読むほど頭が悪くなるものです。何の役にも立たないものです。
一方、科学の反復性とは、まさしく実用性のことです。現実に役に立つものです。
だとするなら、僕たちの住むこの世界というのは、一体なんなのでしょう? 特別な、面白い、本質的なものが役に立たず、日常的な、つまらない、反復性のほうが役に立つということは。
雪が降っているのではなく、自分が雪のほうに浮き上がっていく
佐々井君というのは、現実的にみると何の魅力もないように見えます。家もなく、職もありません。株でお金を稼ぐことは抜群に上手ですが、彼にとってはそれこそが反復性の象徴のようなもので、面白くないのです。僕たちの普通の感覚とは全く逆の感覚を生きているのです。
それはまさに、主人公の僕が感じたような「雪が降っているのではなく、自分が雪のほうに浮き上がっていく」ような感覚です。
同じような感覚を、この本を読んだ方は感じることができるかもしれません。
この物語は科学の反復性を解体して、その本質を描いているのです。まるで佐々井君が山のスライド写真を延々と眺めるように。
そして佐々井君というのはその存在自体があらゆる反復性、どんな家に住んでいるのか、どんな仕事をしているのか、なんていう名前なのか、といった僕たちが社会生活を営む上で必要な反復性、日常性を否定する象徴なのです。
ということで、主人公の「僕」と佐々井君との関係を描くこの物語を読む、ということは、物の本質、現象の本質を読むということ、反復性の奥にある科学の面白さを読む、ということにつながります。
物語の反復性
さて、そんなこの物語は確かに佐々井君を描くことで、文学として科学の反復性を解体しているわけですが、では「物語」というのは一体なんでしょう?
実はこの「物語」もまた、ある種の反復性なのではないでしょうか。
もしも反復しない「本質」というものがあるとすれば、そもそもそれだけで物語になりえるものなのでしょうか。物語、というのは僕たちがある種の「本質」を理解するために必要な反復性、日常性なのではないでしょうか。
だからこそ、それができているかどうか分かりませんが、今、僕はこの物語の「本質」を自分なりの言葉で描こうとしているわけです。
この物語は「文学」としての視点から「科学の本質」を見つめているのですが、実はこの物語を読んでいる人は同時に「文学の本質」を見つめることでもあるのです。当たり前ではない、特別な物語の本質は、文章という反復性によって理解できるものとなるのだから。
そしてまたこの物語の感想を語る人がいたとすれば、その感想を読んだ人は「文学と科学の本質を描いた物語の本質」を見つめることになるでしょう。
そうするとあら不思議、反復性それ自体を一つの現象と考えれば、「反復性の本質」というのもあり得ることになります。
そうすると、もはや本質的だから面白い、反復的だからつまらない、とは言えません。反復性にもまた本質があるのだとすれば。
佐々井君が延々と山の写真を眺めるということは、周りの人からしたら何が面白いのかさっぱり分からないでしょう。でも彼は知っているのです。そうすることによって山の本質が見えてくることを。それが反復されることがどれほど特別なことかを。
そしてそのことを語っているこの物語は、佐々井君が本質を反復しようとしている行為がどれほど特別なことかを反復しようとしているのです。
そしてその物語について語っている僕は今、この物語がどれほど特別なことかを反復しようとしている。
ということは、もしこれを読んだあなたが、誰かに僕が語った今までの文章について語るとしたら、その時あなたは僕が語ったことの特別さを反復しようとすることになるでしょう。
ん? そう考えると、どうでしょう。
もう、本質だろうが反復性だろうが、特別だろうが日常だろうが、科学だろうが文学だろうが、とにかくなんでもかんでも面白くなってくるじゃありませんか。この世界に、つまらないものなんてなくなってくるじゃありませんか。
今日の夜空と明日の夜空が決して同じではないように。依然作った料理と今回作った料理が決して同じではないように。
何かを分かる、というのは結局そういうことなんじゃないか、なんてことを思いながら、でも、それは結局何も分かってないことと同じだ、と気づいたのでした。
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