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【書評】科学者はなぜ神を信じるのか

著明な物理学者である三田 一郎さんの「科学者はなぜ神を信じるのか」を読みました。物理学者でカトリック教徒である筆者の観点から科学史を俯瞰する、という面白い構成で、匠な文章と相まって勉強になる本でした。

ガリレオの宗教裁判

一般的にガリレオの宗教裁判は、地動説と天動説の正しさを巡る激しい論争がイメージされていますが、その実態は教会内部の派閥争いであり、「正しさ」は二の次であった、というのは知りませんでした。端的にいえば、ガリレオは派閥争いに巻き込まれた被害者であり、その時代においては科学的正しさを主張するには「宗教=政治」に気を使わなくてはいけない、という時代の空気感が感じられる下りでした。
現代のグローバルという複雑系の相互監視社会においては、このような「反正義」は良くも悪くも社会に可視化されますが、それでも少なくとも個人的事象の範囲内においては正しいことを主張するためには相応の根回しが必要となる場面は現代であっても誰しも経験することでしょう。

ディラックの主張

宗教的な議論に関しても紹介されていますが、ディラックの語るロジックは個人的には好みでした。

さらにディラックは続けた。
「私は全能の神の存在を定義することが何に役立つのか、本当にわからない。神を持ち出すことによって、なぜ神が防げる多くの悲惨さと不公平、裕福なものによる貧困の搾取などを許すのだろうか。宗教がまだ教えられているのならば、それは、私たちが依然として納得しているからではなく、単に一部の人々が、下級階層を静かにさせたいからだ。静かなものは、不満に満ちている者よりもはるかに管理しやすい。宗教とは、国が国民に対して冒している不公平さを忘れさせ、希望の夢で落ち着かせるような、麻薬の一種なのだ。だから、この二つの大きな政治勢力、すなわち国家と教会の緊密な同盟があるのだ。理不尽に扱われたにもかかわらず、立ち上がらず、静かに義務を果たした全ての人々は、この世ではなく天国で慈しみ深い神が救ってくださると幻想させるのだ。だからこそ、神は人間の想像力からでたものに過ぎないという正直な主張は、すべての人間の罪の中で最も大きな罪であると、政府と教会によって主張されるのだ。

この部分は宗教を信じるか否かが焦点ではなく、実際に宗教がどのような意図をもってデザインされ運用されているか、ということに焦点を当てているのがポイントであり、このあたりの洞察はなかなか切れ味の高いものです。

高校生からの質問

この本は高校生からの質問「先生は科学者なのに、科学の話のなかで神を持ち出すのは卑怯ではないですか」という問に対して、本の最後に作者の宗教観や考え方もをもって答える形の構成をとっており、ここは読んでいただければと思いますが、姿勢の問題に帰着するだけなら綺麗な終わり方なのに反論の形にしてしまったのはやや残念でした(そうなると答えのないお気持ちの戦いになってしまうので)。

このあたりは、孔子の「未だ生を知らず、焉んぞ死を知らん」やパスカルの「不幸な無神論者でいるよりも幸福な信仰者でいることの方が合理的だ」といった割り切り方のほうがわかりやすく感じます。

まとめ

本書では科学史と宗教というテーマを学べるだけでなく、相対性理論や量子力学が分かりやすく説明されているという点も評価が高く、総じておすすめの書籍です。


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