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個人的な手紙少し/ 『乱』


『乱』は黒澤映画の中で1番かもしれない、少なくとも私情を交えたら最も好きな作品です。

ありがたいことに私の周りには、私の日々を、人生を彩ってくれる素敵な人たちがたくさんいます。その中でも特に大切なひとりである子の最も好きな日本映画がこの作品でした。

出会った当時20歳だった北欧出身の彼はとても穏やかで、これまでたくさん損をしてきたのではないかと思ってしまうほど優しい人でした。彼が初めて『乱』の話をしてきたとき私はまだこの作品を観たことがなく、「世界の反対側に生まれたハタチの男の子が黒澤明をこんなに好くなんて、なんて素敵な話なんだ。」ぐらいに思っていました。しかし、彼と少しばかり疎遠になった今、何の気も無しに鑑賞してみたら、あまりにも強い感情が込み上げてきました。


信じること、疑うこと。助けること、裏切ること。戦うこと、逃げること。愛すること、憎むこと。生きること、死ぬこと。


構想9年、総費26億円をかけて製作されたこの162分の超大作は、本質的には心を共有するはずのあらゆる対立した二項が、苦しいほど対立し合い報われない様を描いています。

仲代達也演じる秀虎が、手にしていた全てを失い狂い壊れていく姿は目も当てられませんが、「殺し合わねば生きてゆけぬ人間の愚かさは、神や仏も救う術はないのだ」と作品内でも叫ばれているように、我々人間の条理を思い知らされます。

人情の惨さの一方で、息を呑むような瑞々しい大地と重厚な美術演習の数々。一生続いて欲しいと願いたくなるような長回しに、瞬きを忘れるような巧みな陰影のロングショット。圧倒的な美しさを誇る「映画」という芸術を、私たちは162分間享受することとなります。


私の大切な人のひとりである彼は時々、穏やかさの背後でメランコリーが見え隠れするようによう微笑むことがありました。当時20歳だった彼はもうそのとき既に、他の多くの人より広く深く世界を眼差していたのだと思います。

『乱』はとても美しくとても醜い、この世をそっくりそのまま映し取ったような映画です。私は彼がこの作品を何よりも好きだと言ったことに今とても納得しているし、彼を素敵だと、大切だと思ったことにも腑に落ちているし、何より彼に出会えたこの世の巡り合わせに感謝しています。

彼が『乱』に出会ったこと。
私と彼が出会ったこと。
彼が好きだと言った『乱』に私が出会ったこと。

この世界は救いようもなく不確かなものだけど、限りなく確かに、かけがえのない出会いがあります。これからの彼の人生にも確かな出会いがありますように。そんなことを思いながら文章を結びます。

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