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ピアノのバッハ26:アルマンドについて

バロック時代の舞曲は当たり前のことなのですが、踊るための音楽だったので、舞曲には「振り付け譜」が付けられているのが普通でした。

バロック舞曲の本来の楽譜は次のようなものです。

一段の五線譜の下に、踊るための腕の動作に足の動きが図示されています。

ルイ14世の宮廷で発達した
ボーシャン=フイエ記譜法において
楽譜の下に「踊る手順」が書かれています
音楽家は単旋律のメロディに
即興で伴奏をつけたわけです
https://videoarcades.wordpress.com/2014/12/14/baroque-dance-notation/

舞曲は、踊り手を自然に踊らせるために拍節感を感じさせることが肝心。

2・2・
23・23・23

または

234・234・234

踊り手に正しいリズムの拍を伝えることが第一の目的。

拍の強拍リズムを強調して、踊り易くさせるのが良い舞曲。

この最も大事な点を踏まえたうえで、付属の美しいメロディとハーモニーが伴われるのです。

なのですが、バロック時代も下ってゆくと、踊るという実用のためではない、器楽演奏して鑑賞されるための舞曲を一部の作曲家は作曲するようになります。

そういう作曲家には、フランスのラモー、イギリスのパーセル、ヘンデル、それにドイツのバッハなどがいました。

今回はそんなヨハン・セバスティアン・バッハの舞曲集には必ず登場するドイツ舞曲アルマンドについて。

フランス文化の中のバッハ

バッハの生きていた18世紀、欧州の文化で最も最先端だと信じられていたのはフランス文化でした。

バッハが暮らしていた神聖ローマ帝国内の諸国は、当時欧州で最も栄華を極めていた隣国ルイ14世のフランスを先進国として崇めていました。

フランスの行儀作法、礼儀、文化風習、言葉に音楽など、どれをとっても当時のドイツの人たちには憧れの対象だったのです。

ヴェルサイユ宮殿を模しているサンスーシ宮殿を建てた、フランス文化かぶれのプロイセンのフリードリヒ大王の宮廷などは典型的ですね。

バッハ自身はフランス語を喋れるようにまで学ぶ教育を受けることができなかったのですが、フランス文化優位の世界に生まれ育ったために、作曲家バッハの創作作品にはフランス様式を尊ぶ文化の影響が色濃く反映されています。

バロック宮廷にはなくてはならないバロック舞踊のための音楽(舞曲)の多くもまた、フランス由来。

スペインやイタリア起源の舞踏さえも、フランスにおいて改良されたものがフランス経由でドイツ諸国に伝えられたりもしていました。

そしてバッハの生まれたドイツの舞曲も、フランスへと伝えられて、宮廷舞曲に改良されたりもしました。

フランス語で「ドイツ」を Allemagne(無理やりカタカナで書いて「アルマニュ」)と呼びますが、この単語の形容詞形が

Allemande(女性形)・Allemande(男性形)

ドイツ風という意味
英語のGermanyに対するGerman, Germanicです

つまり、バッハの組曲に欠かせないアルマンドという舞曲は、フランス文化優位文化圏に住んでいたバッハの世界のドイツ舞曲の呼び名だったです。

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