何度も見た懐かしい映画:「レナードの朝」
Noteを開いて一番楽しいのは、ライターさんが自分の好きなことを思う存分語っているような記事を読むことです。
好きなことを語っている人の文章ほど楽しいことはない。
専門的分析や深い洞察があれば勉強になりますが、とりあえず「スキ」を語っている文章を読めば、嬉しくなりますね。
というわけで、今日は好きな映画の話。
古い映画ですが、この記事を読んで、この映画見てみたいなと思っていただけると嬉しいです。
ペニー・マーシャル監督の「Awakenings」(1990)
何度も何度も学生時代に見た、あるアメリカ映画があります。
日本の高校卒業して外国に行ったまではよかったけれども(外国の大学に行きました)英語を喋るための口の中の筋肉が全然できてなかったので、英文を文法に則してきちんと話しているつもりでも、発音最悪で全然言葉が通じなくて、自己嫌悪して、もう語学学校にさえ行かないで、ずっと引きこもっていた20歳くらいの頃に大好きだった映画がこれでした。
原題はAwakenings なのに「レナードの朝」なんて的外れな邦訳が付いている。
直訳すれば「目覚め」か「覚醒」だけど、目覚めるのはロバート・デ・ニーロ扮するレナードだけではなく、眠り続けるレナードを覚醒させる、今は亡きロビン・ウィリアムスが演じたマルコム・セイヤー医師もまた、最後には目覚めるのです。
何も知らないままにこの映画を見て、セイヤー医師と共に泣いてほしい。
そして最後に、ようやく本当に誰かのために生きる意味を見つける、愛おしいほどにシャイなセイヤー医師の勇気溢れる行為にほっこりして欲しい。
見終えた後もレナードとポーラが最後に病院のカフェテリアで抱き合う中で流れる、悲しいほどに美しい、二度のぶつかり合う不協和の響きとその開放から生みだされる、不安と安らぎのはざまを漂い続ける、ピアノの調べが脳裏にいつまでもこだまする。この曲をいまでもわたしは時々弾いています。
まだ映画を一度もご覧になられたことのない方で、何も知らずに見てみたいと言われる方は、ここから先を読むことをここでおやめください。
ネタバレしてしまいます。
眠り続ける患者たち
原作はオリヴァー・サックス医師の有名な、嗜眠性脳炎(眠り病)と呼ばれる植物人間のように眠り続ける患者の記録を綴ったノン・フィクション。
原作には多くの患者の記録が載せられているけれども、映画はただ一人の人物にだけ光を当てる。11歳の頃からもう30年も眠り続けるレナードに。
1969年のアメリカのニューヨーク・ブロンクス。臨床経験の全くない医師が精神病科に赴任してくる。未経験ゆえに今までにない治療法を試みるが、近頃開発されたパーキンソン病の新薬を眠り続ける患者に投与することを上司と患者の家族に納得させ、彼は奇跡をひき起こす。
映画の中では子供の頃のレナードが読んでいたドイツの詩人リルケの詩集がストーリーを進展させるトリガーとなります。
投与の翌朝、30年も眠り続けていたレナードが目をさます。30年ぶりに見る新しい世界に目を見張るレナード。
ただただすべてが新鮮で生きる喜びに打ち震えるレナードの姿に、セイヤー医師は独りで研究ばかりを生きがいとしてきた自身の人生を鑑みる。
出会いと別れ
目覚めたレナードは、病院の外にはセイヤー医師の同伴なくしては叶わない。そのような中で父親の見舞いに訪れた若い女性ポーラにレナードは目を奪われる。
恋することも知らずに、11歳のころから永い眠りの中にいた、40歳過ぎの純朴なレナードの初恋。でもレナードは彼女と共に外へ出て行くこともできない患者の身。ティーンエージャーのごとくに一人で外出したいと駄々をこねて暴れまわるレナード。
それ以来、彼を覚醒させている新薬の効き目に変化が現れる。新薬の効果が薄れて来たことを自覚したレナードは、セイヤー医師に自分の症状の悪化の記録を後の世に役立てるために詳細に記録することを頼む。
そうして、もはや薬による目覚めている時間の終わりがまもなく訪れることを悟ったレナードは、ポーラに最後の別れを告げる。
二人は共に舞う。
あまりにも悲しいチーク。
二人は動きを止めてただ抱き合う。
頬を伝うポーラの涙。
レナードは彼女を送り出し、いつまでも彼女の後姿を高い病棟の窓越しに見つめ続ける。バスに乗り去ってゆく彼女。
わたしは数多くの映画を見ましたが、これ以上に悲しくも美しい別れのシーンを知りません。
やがて、レナードは再び眠りにつきます。
目覚めていた頃のレナードの記録映像を眺めながら、セイヤー医師は患者たちを目覚めさせて、ほんの束の間ばかり生きる時間を与えながらも、それを奪い取ってしまったのは自分なのだと悔恨の涙にくれます。
深い罪悪感。
それまでセイヤー医師の傍らに常にいて、患者たちと喜怒哀楽を共にしてきた看護師エレノアは、そう感じるのはあなたが優しい人だから、と深い愛情をもって慰めの言葉をかける。
目覚めたレナードたちから、今を生きていることの素晴らしさを学び、そして人を愛するというかけがえのない思いを知ったセイヤー医師は、いままで何度もお茶でもどうですかと誘われながらも拒み続けてきたにもかかわらず、最後には自分からエレノアに、もしよかったらお茶でもどうですか、と人生初めて女性をお茶に誘うのです。
突然の申し出に驚きながらもエレノアは、喜びを隠すことなく二つ返事でOK。やがて楽しげに語らいながら、夜の病院を後にしてゆく二人。
セイヤー医師の目覚め
研究と趣味の植物観察以外にはとりえのなかった、人の心を理解しえないセイヤー医師もまた、この映画の物語を通じて目覚めた人なのだと私には思えます。
だから邦題は「レナードの朝」ではなく、「レナードとセイヤー医師の目覚め」であるべきだと個人的にはずっと思っています。
32年も前の1990年に制作された、1960年代を描いた映画だけれども、出来る限り多くの人に見て頂きたい心洗われる美しい古典的名画です。