「光と風と夢」の主人公スティーブンソンの伝える幕末の日本語
こういう記事に出会いました。
松下村塾の吉田松陰(本名:寅次郎 1830-1859)の世界最初の伝記が、日本ではなく、イギリスにおいて英語で書かれていたとは初耳でした。
1880年、明治12年ごろのことです。
こういう記事に出会えることは、わたしにはNoteを読む醍醐味です。
ですが、私が興味を持っているのはスコットランド出身の英国人小説家で南太平洋のサモアの土となったスティーブンソン。
代表作は「宝島」に「ジキル博士とハイド氏」。
青空文庫には日本語訳はありません。
というわけで、さっそくスティーブンソンの「Yoshida Torajiro」をネットで探してきて読んで見ました。
英語原作です。
中島敦の「光と風と夢」
ほんの三十ページほどの短編ですが、簡潔に、よく書かれた伝記。
スティーブンソンは、松下村塾の塾生で、明治政府の要人として英国留学して日本の開国に貢献した正木退蔵 (1846-1896) から、松陰の壮絶な生涯を聞いて感銘を受け、それを発表したというのですから、貴重な証言です。
その昔、司馬遼太郎などを読み漁りました。テロルでもって国家を転覆しようとしていた薩長にはとても共感できなかったのですが、やはりああいう血なまぐさい内乱があったからこそ、時代が変わったのだと納得しました。
今では特に幕末の志士には興味がないのですが、19世紀終わりに活躍したスティーブンソンが日本という知られざる国に興味を示していたということは興味深い。
西欧文明を嫌ったスティーブンソンはアメリカに移り住んだ後、やがて南太平洋のサモアに渡り、彼の地で没しますが、やはり日本のような遠い世界を夢見ていたのでしょう。フランスの画家のポウル・ゴーギャンはタヒチに渡りました。
そしてゴーギャンの小説を下敷きにして書かれたのが英国人サマセット・モームの「月と六ペンス」でした。
我が国の中島敦 (1909-1942) は小説家スティーブンソンの生涯を物語にしています。昭和17年前半期(1942年)の芥川賞候補だった作品。この選考では落選してしまいましたが、該当作はなしだったとのこと。
何がいけなかったのでしょうか。本作は随所に美しい人生への深い警句があふれ出していて、読みがいのある名品です。
敦は1941年6月終わりに南方パラオに赴任。
慢性的ぜんそく悪化のために帰国しますが、同じ太平洋で暮らした同業者スティーブンソンの生涯の興味を持ったのでした。
擬古漢文調の、中国古代を取材した「山月記」や「李陵」などとは全く違った、硬質な現代日本語による文体で書かれていて、作者の有名な中国物しか知らない人は手に取って読まれると、中島敦の別の一面を見ることができます。
敦は英語にも堪能であったということがわかります。
今回再読して感銘を受けた部分を抜き出してみましょう。
著作権が切れているので、青空文庫より無料で読むことができます。アプリで読めば縦書き表示されて読みやすいですよ。
ドラマティックな事件よりも、小説舞台となる雰囲気を重んじたというスティーブンソン。だから彼には宝島の海賊たちの世界の描写やジキルとハイドの不気味な世界が登場人物たちよりもより重要だったわけです。
放浪の小説家スティーブンソンは間違いなく後者の部類に入る人。だから私は彼に興味を持っています。自分の周りの世界と調和することに困難を感じているがために、世を斜めから見つめるスティーブンソン。
わたしは海外で人生の半分以上を過ごしていますが、だんだんと最初は後者みたいに日本を嫌っていたタイプだった自分は、前者のように人生を肯定的に味わえるようになってきたように思えます。
わたしはこんなスティーブンソンに共感して、感情移入します。
「人間は、夢がそれから作られるような物質であるに違いない」=夢を構成する物質で人はできている!
孤島で繰り広げられる、シェイクスピアの魔法劇「あらし」の第四幕第一場のプロスペローの語る有名な言葉の引用ですね。
シェイクスピアの「テンペスト」
昔読んだ時にはシェイクスピアに親しんでいなかったので、わかりませんでしたが、再読して、ああシェイクスピアだ、と嬉しくなりました。作中「シェークスピア」としてシェイクスピアは何度か言及されます。
中島敦の小説「光と風と夢」の一番最後の方で出てくる言葉です。
だからこの小説は、南国サモアの直射日光と爽やかな風と、シェイクスピアの語ったような夢からなる人々の物語というわけです。
きっと中島敦も「テンペスト」が好きだったのでしょう。
この小説は「ツシタラの死」という題名で書かれた小説でしたが、サモア語の「ツシタラ=物語る人=つまり、小説家)では一般受けしないので、改題されました。シェイクスピアの夢の引用からこの題名が決められたのでしょう。
スティーブンソンの吉田松陰:日本語とは?
さてスティーブンソンの書いた吉田松陰の伝記ですが、スティーブンソンは英語読者に耳慣れない日本語ローマ字の読み方の解説から物語を始めます。
ヘボン式ローマ字は幕末開国後にアメリカから日本に訪れた宣教師ヘップバーンによって考案されましたが、ヘボン式ローマ字を紹介する本はなんと明治初年に出版されています。1968年なので「Yoshida Torajiro」の12年前。スティーブンソンはきっと正木退蔵より日本語の読み方を習ったのでしょう。
英語がなぜこれほどに日本語話者には難しいかを何度も論じてきたわたしとしては、スティーブンソンの日本語の特徴の解説に、我が意を得たりと嬉しくなりました。
強拍があるのが英語の特徴。
だから音節の長さや強さが音節ごとに異なります。でも日本語はフランス語のようにほとんど同じ。
日本の首都の江戸はYeddoと書かれていて、Edoでは「イードー」とも読めるのでこの方が良いですね。英語Yeは「イェ」ですが、失われた平仮名「ゑ」はこのような音だったともいわれています。
eにアクセントを置くならば、カタカナ表記では「ィエドォ」と響きます。
スティーブンソンの英語は大袈裟な形容詞が少なくて即物的で読みやすいものです。Patriotism愛国主義という言葉が何度も強調されて、吉田寅次郎の潔い人生が賛美されます。
作中、寅次郎にペリーの船への密航を勧めた佐久間象山と何度も対比され、最後はこのように締めくくられます。
壮絶な人生に果てた志士と太平なヴィクトリア英国のスティーブンソン
日下部は薩摩脱藩して水戸藩と工作を進めるも、捕縛されて「安政の大獄」勃発のきっかけを作ったとされる人物。
長州の野村は、おそらく松下村塾で正木と机を並べた野村靖だと思われますが、スティーブンソンは文中で一度しか言及していません。この人は維新を生き残り、明治政府で活躍したのですが、吉田松陰の遺書である留魂録を託されたがために、正木がスティーブンソンに彼のことを語ったのでしょう。
Wikipediaには
と書かれています。
おそらく正木は師が弟子たちのために獄中で書き残した書を読んで改めて師の救国の想いに深く心打たれたのです。正木が渡英した明治9年のこと。松陰の言葉は英国人のスティーブンソンらに語りたくなるほどに正木の胸に深い印象を残したのでした。
スティーブンソンは平和なヴィクトリア英国に暮らしていて、まさにその同時代に新しい国造りのために命を捧げた志士たちの生涯に心打たれたのでした。