戦場からこだまする歌:マーラーの歌曲より
ロシア軍によって攻撃されたウクライナのある街から避難して行くピアニストが奏でるピアノの映像を見ました。
奇跡的に破壊を免れた、彼女の所持する白いグランドピアノが廃墟の中で鳴り響いたのです。
ウクライナのショパン(2022年3月)
シューベルトの即興曲作品90の2を試し弾きのように少しばかり弾いて、やがてショパンのハ長調の練習曲作品25の1「エオリアンハープ」を彼女は弾きました。
動画は途中で途切れていますが、動画を撮られた方は破壊された自宅のありさまを詳細に映し出してしていました。
演奏後、言葉に表しようのない無念を彼女は胸に秘めて自宅を去って行ったことでしょう。
この動画を見て、「戦場のピアニスト」というアカデミー賞受賞作の映画を思い出しました。
映画「戦場のピアニスト」(2002年)
ナチスドイツの軍靴に蹂躙されてウクライナ同様に瓦礫と化したポーランドの街で生き延びたユダヤ人ピアニストであるシュピルマンの実話。第二次世界大戦の頃のお話。
ここでもショパンが美しく響きました。ショパン初期の作品で、遺作の夜想曲嬰ハ短調。
醜い戦争と美しい音楽。
両極端は通じ合うと言います。
戦場となって廃墟と化した街には、失われてしまった美の象徴として、どうしてなのか、いつだって美しいピアノが響き渡るのです。
映画「イングリッシュ・ペイシェント」(1996年)
「イングリッシュ・ペイシェント」という映画では、破壊された民家で脚が壊れて傾いているピアノを思わず弾いてしまう女性が登場します。
彼女が奏でていたのは、J.S. バッハのゴールドベルク変奏曲でした。
いつの時代の戦場にも、場違いなまでに美しい音楽が鳴り響いていました。
これらの動画を思い出して、そしてわたしの脳裏には全く別の音楽の響きが蘇りました。わたしにはとても懐かしい歌。
戦場での歌ではない、平和な街に届く、遠い戦場からこだましてくる音楽。
マーラーの歌曲集「子供の不思議な角笛」(1892-1901年)
オーストリアのユダヤ人作曲家グスタフ・マーラーは、ドイツに古くから伝わる伝承を集めた詩集「子供の不思議な角笛」を大好きになり、ブレンターノやアルニムの編纂した詩集から自分が選び出した二十ほどの詩に音楽をつけたのです。
良く知られているのは管弦楽化された12曲ほど。若き日の歌と題された初期のピアノ伴奏歌曲にも「子供の不思議な角笛」の詩は含まれています。幾つかの名作は、交響曲第二番、第三番、第四番、そして未完の第十番にまで大事な音楽として引用されています。
詩は中世から近世までさまざまな時代なものが含まれているようですが、興味深いのは、兵士たちの歌がたくさん含まれていること。
三十年戦争で国土を蹂躙されて近代化に乗り遅れて、またナポレオン戦争においても大変な犠牲を払ったドイツには悲しい兵士たちを歌った詩は非常に身近なものだったのでしょう。
なかでも「美しいトランペットの鳴り響くところ」という一曲が素晴らしく、これほどに聴き手の心を打つ歌曲も珍しい。
わたしはマーラーの後期の深淵な交響曲群よりも深い感動を秘めた名曲であると思います。個人的には彼の全作品中の最高傑作です。
「美しいトランペットの鳴り響くところ」
名花クリスタ・ルードヴィヒに、世紀のマーラー指揮者のレナード・バーンスタインと作曲家となじみの深いウィーンフィルによる超名演です。
英語字幕付きですが、日本語字幕付き動画は見つかりませんでしたので、歌詞をコピペしておきます。
ご覧のように女性と彼女の恋人とが語らい合う物語詩。オリジナルな詩に文学青年だった作曲家マーラー自身の言葉も挿入されていて、作曲家のこの曲への思い入れの深さを感じさせます。「遠くではナイチンゲールが歌ってた
そして彼女もすすり泣きはじめた!」という部分。
ある若い女性の戸口を夜中に訪ねてきた男、でも姿はなく婚約者らしい若い男の声は、これからとても遠いところ、トランペットが美しく鳴り響くところへと出かけてゆくのだという。そして行けばもう二度と帰ってくることは叶わぬのです。
始まりの部分のトランペットを模した音(ドアを叩く音?)が聞こえてくる、二短調の寂しげな響き。四分の二拍子の彼女のニ長調の歌。でも男の声はやがて、彼女の歌うニ長調からとても遠い、フラット記号が六つの変ト長調という、明るい色彩の牧歌的な四分の三拍子で歌われるのです。
曲は交互に悲しげな女性の短調の歌に翳り、戦場で死んだ男の優しい変ト長調の歌は愛しい彼女に別れを告げて消えてゆくのです。
遠い戦場から愛する彼女の元へ、天(緑の荒野)へと上ってゆく前に舞い戻った亡霊との対話。忘れ難いまでに美しい歌曲です。
芸術歌曲の普遍性
きっとロシアでは、こうした悲劇が今現在、実際に起こっているのでは。二度と帰ってくることのない父親や息子や恋人たち。
ウクライナの戦争、悲惨なのは攻め込まれたウクライナばかりではありません。ロシアにもまたたくさんの悲しい物語が生まれているはずです。
銃後のロシアの地が戦場になる日も遠くないのかもしれません。
ウクライナのピアニストのショパン、そしてマーラーの歌曲を聴きながら、物悲しくて美しい調べは瓦礫で覆われた戦場にばかり鳴り響くものではないのだという思いを深くしています。
参考文献:
吉田秀和「永遠の故郷:真昼」(2010)
「少年の不思議な角笛」から
大野和志が語る「少年の不思議な角笛」(2019)
指揮者の大野さん自らピアノで弾き語ってくれる「美しいトランペットの鳴り響くところ」。無料なのが不思議なくらいのすばらしい解説です。