懐かしいクラシック音楽の歌
ふと懐かしい歌を思い出したので聴いてみました。
民謡を研究していたフランス・オーヴェルニュ出身の作曲家ジョゼフ・カントルーブJoseph Canteloube (1879-1957) が書いた歌曲集「オーヴェルーニュの歌」のなかの「バイレロ」です。
レーレレレレ、レーレレレレレレと同音が繰り返されて、ドーミーーレドシラソーファーと音は下降して行く。民謡らしく技巧のない本当に単純なメロディ。変ロ長調。
だからこそ忘れられない、素朴な歌が胸を打ちます。
オペラ歌手のような大仰なビブラートを使わない、まっすぐなノンビブラートがいい。
オーヴェルニュはフランス中南部の山岳地帯。カントルーブはオーヴィルニュ出身。
カントルーブは故郷の羊飼いや農民たちの民謡を集めて管弦楽化したのでした。残念ながらこの歌曲集以外で彼の名は知られていませんが、全曲を完成させるのに30年以上を費やしたそうなので、この歌曲集のみで記憶されたとしても本望でしょう。
それほどに素晴らしい歌曲集。
山のなかの片田舎の情景が独特の抒情的な旋律に乗って歌われるのですが、全曲中で最も広く知られているのは「バイレロ」です。
わたしがクラシック音楽に出会ったのは高校生の頃でした。
それまでは学校で必修課題として習うソプラノリコーダーくらいにしか音楽に親しんでいなかったのですが、行きたくもなかった高校に通うことになり、かといって退学することも引きこもることも許されず、嫌々ながら生きていた暗い日々のなかで出会った一筋の光明のような存在だったのがクラシック音楽でした。
いまとは違ってクラシック音楽に趣味としてのめり込む方法は、CDを購入するかラジオで聴くかという時代。平成時代の初めの頃。
クラシック音楽という奥深い世界に入ってゆくためにはガイドが必要なのですが、わたしの周りにはクラシック音楽を好きな人も知っている人もいなかったので、クラシック音楽評論家と呼ばれる専門家が愛好家のために書いた新書などを手に取り、学校のことなど忘れて朝から晩までクラシック音楽を聴いて、そしてクラシック音楽のことばかり考えていました。
こういう聴き方の良いところは、広く体系的に学べること。
クラシック音楽には学ぶ喜びがあるのです。奥深い趣味には学ぶことを楽しむ要素が不可欠です。アイドル歌手のことをなんでも知りたくなって調べたり、好きな作家や漫画家の作品を徹底的に読み耽るなんていうことにも通じます。
もちろん好きな歌手だけを追いかけるようなポップミュージック的な聴き方もありますが、クラシック音楽という四百年以上の長大な伝統を持つ異国の文化の奥深さに憧れて手当たり次第に聴きまくりました。
やがて楽器を習おうと思い立ち、そこからわたしの人生はいつだってクラシック音楽とともにあるという人生へと変容してゆくのです。15歳の頃で、5歳くらいからピアノを習ってきた人が楽器を辞める頃だったかもしれません。
クラシック音楽と過ごした時間はわたしの人生そのもので、だからこそクラシック音楽の聴き方を教えてくれた個性豊かな評論家の方々はわたしの人生の導き手だったと言えるでしょう。
クラシック音楽評論家が語る音楽や演奏家は、子供の頃から楽器を習って音大を目指すような人たちが知っている作曲家や演奏家とは異なることが多いということをご存知でしょうか。
ピアノやヴァイオリンを習うような人たちが知っている作曲家は、ピアノならばピアノ音楽を書くことに特化した人たちばかり。ヴァイオリンもチェロもまた同じ。
楽器専門の人たちが、交響曲作曲家マーラーやブルックナーや歌劇作曲家ヴァーグナーやリヒャルト・シュトラウスやベルリーニに親しんでいることはまずないし、ベートーヴェンの熱情ソナタは全部暗譜していても、名作ヴァイオリン協奏曲や弦楽四重奏曲は知らないし、モーツァルトのピアノソナタを嫌というほど子供の頃に弾かされて親しんでいたとしても、モーツァルトのオペラはひとつも知らない。そういうことが当たり前なのです。
だからわたしはある意味、特定の楽器のために書かれた音楽しか知らない人たちよりも恵まれていました。
自分の楽器が奏でるレパートリーではなく、音楽そのものを好きになれたからです。
交響曲も楽劇も室内楽も宗教曲も調性のない現代音楽も、スペインの音楽もドイツの音楽もデンマークの音楽もブラジルの音楽などにも同じように親しめました。
ピアノを志す人は往々にしてピアノ音楽は好きでも、クラシック音楽という人類の遺産全体が好きであることはごく少ない。
わたしはクラシック音楽のごく一部でしかないピアノ音楽の世界よりも大きくて広くて奥深いクラシック音楽に出会えたことは大変に幸福だったと思えます。
ピアノを習っていてかなり弾ける技術を得ても、音楽を愛する心を持たずにやめてしまった人たちにたくさん出会ってきたからです。
わたしはクラシック音楽鑑賞文化を伝えてくれる、学識豊かなクラシック音楽評論家から人生において大切なことをたくさん学べました。
クラシック音楽という、シェイクスピアの生きていたバロック時代の音楽から始まるクラシック音楽を愛することを学べたのでした。
そして演奏家たちの歴史のことも。
ヴァイオリン奏者には作曲家でしかないフリッツ・クライスラーや、同じくピアノ奏者には作曲家でしかないセルゲイ・ラフマニノフの歴史的演奏に親しんできたわたしは本当に特別な体験をしてきたと言えるでしょうか。
わたしが特に好きだった、わたしにクラシック音楽とは何かを教えてくれたのは、昭和の終わりから平成時代に活躍したクラシック音楽評論家の方々でした。
吉田秀和、志鳥栄八郎、宇野功芳、許光俊、渡辺和彦、中野雄、福島章恭といった人たち。懐かしい名前ばかり。存命中の方もいらっしゃいますが、もう音楽評論では生計を立てられなくなり、筆を折られたのではとさえ思います。
もはや音楽評論なんて読む人はほとんどいない。少なくとも新たな録音に関する専門書は売れない。この自分だって読まないくらい。
評論家は発売される録音された音源であるレコードやCDを論じる人たちでしたが、個性豊かな解説を書かれる上記のような方々の言葉こそが若かったわたしにはクラシック音楽の世界を開拓してゆく上での指針でした。
高校生の頃に買った講談社現代新書の宇野功芳「クラシックの名曲名盤」はそれこそ手垢で本の横の部分が変色するほどまで毎日開いては推薦される希少な音源を手に入れたいと毎日思っていました。
宇野氏はいわゆる新譜よりも二十年前から名盤として知られる録音を紹介したりして、推薦版は入手困難なことが多かったのです。
今ではどれもYouTubeで無償で聴けてしまうのですが、知識がないとクラシック音楽ファンをどんなに熱狂させた世紀の名盤も、YouTubeやSpotifyなどの配信サービスからはなかなか見つけることはできません。
全く時代は変わってしまったのです。
さて以上のような音楽体験を通じて、十六世紀のモンテヴェルディやパーセルから二十世紀のデュルフレやメシアン、ピアソラ、モンポウまで幅広く親しんできましたが、クラシック音楽評論家からでなければ知ることができなかったであろうと思われる珠玉の音楽にいくつも出会えたことは本当に幸運でした。
演奏ばかりしている専門家よりも、評論家は一般的に幅広く音楽を知っていたのですから。
今回紹介したいカントルーブのバイレロも声楽に無縁なわたしが評論家の著書から知った素晴らしい音楽。
声楽を勉強されていても、フランスにでも留学しない限り、この曲に出会える方は数少ないことでしょうね。
でもクラシック音楽愛好家は音大の音楽史の授業では絶対に出会わないこういう作曲家を知っているのです。
曲集は南仏山岳地帯の羊飼いなどの普通の人たちの暮らしを反映した素朴でコケットな内容の民謡。やはり恋歌が多いけれども、都会的な洗練はなく、お嬢さん仲良くしましょうだとか、いいえわたしには良い人がいるのよ、だとか恋人に捨てられた女性の歌などでいっぱい。どこかあの素朴な万葉集の恋歌を思わせる世界。
オック語 (英語でOccitan) と呼ばれる、標準フランス語とは全く異なる方言で歌われるので、きっと普通のフランス人にもわからない。
でも我々標準日本語を知る日本人が沖縄語ともいうべき沖縄方言の日本語で歌われる歌を聞くと心打たれるように、フランス方言のオック語の歌はフランス語を知らない人たちの琴線にも触れるものです。
でも素朴な民謡調の歌なので、いわゆるクラシック音楽の大歌手が歌うと歌の純粋さが損なわれてしまうと思います。
この歌の名演奏としてスペインのロス・アンヘレスやニュージーランドのキリ・テ・カナワなどの歌唱がクラシックファンには名盤として知られていますが、どれほどに往年のオペラ劇場で一斉を風靡した大歌手の歌唱でも、あの素朴さを表現できていないならば失格です。
彼女らの録音が声楽的にどれほど立派でも、わたしには毒舌の評論家宇野氏の推薦したネタニア・ダブラツの歌唱が最高なのです。
世界的にも名盤として愛好家には知られていますが、やはり知る人ぞ知るといった録音でしょう。1960年代の音源ですから。
ダブラツはウクライナのユダヤ人家庭に生まれて、第二次対戦後にイスラエル復興を推進したシオニズム運動の流れに乗ってイスラエルに移住し、かの地で才能を伸ばして、アメリカやドイツ、イタリアで歌うようになるですが、彼女のキャリアは上記のキリ・テ・カナワやロス・アンヘレスの足元にも及ばないものです。
でも彼女の歌うカントルーブのオーヴェルニュ歌曲集の魅力にはどんな大歌手の名録音も敵わない。
歌劇場の隅まで響き渡る巨大な声量を持つ大歌手のテ・カナワやアンヘレスに比べると、ダブラツはずっと素人っぽい。技術的に拙劣です。でも、いわゆるヘタウマなのです。農民の娘の歌を歌うにぴったりな可憐な声なのです。
ダブラツには歌劇場で歌うには声量は乏しいかもしれないけれども、それを補って余りある表現があるのです。
ここが楽器専門な人が推薦する音楽的に優れた名盤と、音楽を感動という限りなく客観性を欠いた基準で音楽ファンに音楽を勧める評論家の選ぶ音楽の違いです。
わたしはダブラツの録音を大ソプラノ、キリ・テ・カナワの録音よりも愛してやまないのです。わ テ・カナワの歌うシュトラウスやモーツァルトは大好きですが、カントルーブの素朴な世界を歌うには彼女の声はゴージャスすぎると思います。
民謡という大地に根ざした素朴な歌だから、超一流歌手とは呼ばれなかったダブラツに相応しい。そして彼女はオーヴェルニュの歌全曲を録音した世界初めての歌手でもありました。
テクニックに秀でた優秀な演奏よりも、技術的には劣りながらも聴き手に訴えかける力を持つヘタウマな演奏、楽器専門でない自分はこんな演奏が大好き。
こういう技術一辺倒ではない演奏を愛すること。そういうことをわたしは評論家たちの推薦する名盤と呼ばれる演奏から学んだのだと思うのです。
音楽とはスポーツ的な要素もあり、オリンピック競技的な完璧さとスポーツ的なリズムの官能的な快感が音楽演奏の大切な要素であることは間違いありませんが、音楽演奏は同時に聴き手に訴えかける表現なので、時として技術的にイマイチでもヘタウマな感動的な演奏になり得るのです。
ミスタッチばかりの演奏でも、ミスのない完璧な演奏よりも我々の心を打つことはよくあることなのです。
子供の頃から楽器を無理やり習わされて、スポーツであるかのように技術を身につけた人にはきっと理解できないのだろうけれども、わたしはそんなクラシック音楽が好き。
そういう文化を趣味として人生の伴侶として過ごしてこれた自分は果報者だとさえ思えるのです。
また別の例。
高名な評論家吉田秀和さんはモラヴィアの作曲家ヤナーチェクの知られざるピアノ作品をショパンのある作品を語りながら紹介してくれました。
わたしにはショパンのバラードなんかよりもこのヤナーチェクがずっと好き。
映画「存在の耐えられない軽さ」の中で効果的に使用されたのでご存じの方もいらっしゃるかもしれませんが、吉田さんにこの曲を紹介されて、わたしはヤナーチェクが大好きになりました。
チェコスロヴァキアの音楽を伝えることに人生を捧げた名ピアニスト・フィルクシュニーの演奏がピカイチです。技術が冴え渡らない朴訥としたタッチがいい。語るピアノ。
とても懐かしくて、でも不条理な世界の音楽。
こういう音楽も普通にピアノを習っていたりするだけでは出会わない。またピアノの先生はこういう演奏を生徒にお薦めしたりしないはず。
だから楽器演奏技術至上主義ではない、ヘタウマを愛するクラシック音楽の愛好家でよかったなと今は思えます。
これから新しくクラシック音楽を好きになるような人は何を指針にしてクラシック音楽の奥深い世界に入り込んでゆくのだろう。
配信サイトの人工知能のおすすめなどでは、社会主義化した祖国を捨てて故国の音楽を異国にて奏で続けたフィルクシュニや、純朴なダブラツのバイレロの歌には決して辿りつかない。
いまも同じくらい素晴らしい演奏が新しい演奏家から生まれているという方もいるかもしれないけれども、わたしはそうは思わない。
クラシック音楽は過去に積み上げられた偉大な伝統に培われた芸術で、ブルーノ・ワルターやウィレム・メンゲルベルク、オットー・クレンペラー、レナード・バーンスタインといったマーラー指揮者を知らずして、本当に素晴らしいマーラーの音楽は再現できないと思わざるを得ない。
ちょうど日本の寿司を食べたことがない人がグローバル化した非日本的な寿司を作っているようなもの。
海苔を反転させたグローバルなアヴォカド入りのカリフォルニアロールやチリソースたっぷりの真っ赤なな握り寿司も美味しいだけども、やはり自分には本当の寿司でないように思えてしまう。
ユダヤ人の苦悩のない音響的には素晴らしいインターナショナルなマーラーや、世界の終わりを思わせる緊迫した音に満ちたフルトヴェングラーの演奏と対極にある、ポップでリズミカルなベートーヴェンを耳にするたびに、韓国キンパみたいな乾いた寿司飯のサーモンロールを口にしているように思えてしまう。
これからのクラシック音楽はどんなふうに鑑賞されてゆくのでしょうか。
わたしはクラシック音楽を極め尽くしたいと願って三十年もクラシック音楽ばかり奏でて聴いてきて、今となっては夢叶ったかなとも思えて、もうクラシック音楽からは卒業してもいいかなと思えるくらいだけれども、やはり自分が愛してきた音楽が新しい世代の人たちにも愛されてほしいと思っている。
文化は次の世代に受け継がれてゆくものです。
宮沢賢治や中原中也が聴いたような戦前のSPレコードが音楽鑑賞の始まりでした。中原中也の大学の後輩で友人だったのが、上記の吉田秀和。
そして舶来の高尚な文化の象徴となったクラシックは、鹿児島の海軍基地から若い特攻隊員はゲルハルト・ヒッシュの歌うシューベルトの「冬の旅」が末期の音楽となりました。
戦後復興の時代にはドイツのベートーヴェンの音楽が何よりも尊ばれるという昭和の音楽鑑賞が生まれて、ステレオでマーラーやブルックナーを自宅で聴いて(欧米人はこうした曲は家では聞かない)、やがてはモーツァルトの全作品の中で最晩年の作曲家としては最も陰鬱なレクイエムをモーツァルトで一番好きな曲として選ぶような鑑賞層を作りもしたのです。
これが日本人のクラシック音楽鑑賞の歴史。
でもCDの時代も終わりを迎えて音楽録音を収集するという文化が世界的に失われてゆくなか、クラシック音楽もまた斜陽の時代を迎えようとしているのでしょうか。
文化は変わり続けてゆく。クラシック音楽も同じこと。
クラシックは伝統芸能へと収斂されてゆくのでしょうか。
ダブラツのカントルーブやフィルクシュニのヤナーチェクは博物館へと収めて欲しくない。だから忘れられないように、こうしてNoteにも書いています。
調べたらオーヴェルニュの歌について書かれたNoteの投稿は本稿で二つ目。きっとだれも知らないからです。
唯一話題に取り上げられたのはこちらの記事。フランスに行かれた方だから書けたのですね。
オーヴェルニュの歌、これからも聴きづけてくれる人たちがいてほしいなと心から願っています。
さて歌曲集からもう一曲。
楽しいユーモラスな歌が多い歌曲集のなかで、唯一憂愁に満ちているのは「捨てられた女」。契りを交わした恋人は戻ってこないと悲しみを星空の下で歌う。
6:47から悲しい歌が始まりますが、次の歌ではまた明るい世界へと音楽は帰ります。
世界は明るさと闇と喜びと悲しみの繰り返しでできている。
フランスの山に生きた人たちの素朴な民謡はそんなことを思い出させてくれるのです。
カントルーブの師は「フランスの山上の歌による交響曲」という交響詩を書いたヴァンサン・ダンディで、友人はやはり田舎の情景をピアノを通じて音にセヴラックでした。
またこんなあまり知られていない佳品を紹介してゆきたいですね。
「バイレロ」、聴いてみてください。
時と場所を超えて部屋中にオーヴェルニュの風が吹いてくるようです。音楽ってほんとに素晴らしいですね。
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