エッセイ: 美しさについて
南半球なので、四月は秋の始まり。
常緑樹以外の緑陽は深みを帯びた黄や色鮮やかな赤の着物へと衣替えする。
毎年この季節に秋枯れする我が家の裏庭を清楚な白で彩るアネモネが昨日咲いた。
夏草が衰え始めた頃に顔を見せる我が家の白いアネモネは我が目を楽しませる。
心踊る。
でもわたしの心を喜ばせる秋枯れの美しさは、誰にでも理解されるというわけでもない。
わたしの子供たちは野の花などに見向きもしない。
わたしがよくNoteに書いて解説しているクラシック音楽の不朽の名作を美しいとは思えない人たちもたくさんいる。
美しいと審美的に評価する以前に、バッハのゴルトベルク変奏曲などの耳慣れない古典音楽の装いの芸術作品の意味がわからないのだという。
だから「美しい」とは何であるかと考えることがよくある。
美しいとは?
わたしが心から美しいと信じる作品の美しさがわからないという。
わたしが心から美しいと思う花や作品への想いを共有できない事は悲しい。
でも「美しい」は主観的だからで終わらせたくはない。
「美しいとは」を考えれば考えるほど、美しいを理解するには、学習された知識と教養が不可欠なのだとますます思うようになった。
言い換えると、十分な知識と教養を身につけると誰でも美しいが理解できるようになるのかも知れない。
クラシック音楽というジャンルの美しさがクラシック音楽を知らない人の心に届かないのは、クラシック音楽という音楽の美学は学習されないと分からないほどに複雑なものなのかもしれない。
けれども、クラシック音楽の世界にも、私が深みがないとしばしば貶す、大衆的名曲と呼ばれる音楽も存在する。
だが、そんな音楽をとてつもなく美しいと評価する人も少なくはない。
例えば、バッハやモーツァルトのレヴェルの名曲ではないけれども、ピアノ学習初心者に長らく愛好されてきた「乙女の祈り」という曲がある。
ピアノという楽器の高音域の音の美しさを引き出している名品かも知れないけれども、わたしには退屈な作品だ。
物理的な音の戯れはとしても分散和音ばかりで極めて単純、音による思索要素が決定的に足りない。
クラシックと一概に語っても、深みのない作品や、作品の持つ潜在的な美を引き出していない軽薄な演奏もたくさんある。
本当の「美しい」を知るためには、「美しい」を理解するための人生経験と最低限の知識が必要なのだと主張するのは傲慢だろうか?
美しい夕映え
例えば、美しい夕日を眺めてみる。
子供たちはしばしば「ただの夕焼け」だと気にも留めない。
でも大空を染め上げる赤い空のグラデーションに涙を流すほどに感動する子もいる。
きっとその子は、生きていると悲しいことがあるということを幼くして経験してしまった子なのだと思う。
一日に43回も夕日を眺めたというサン=テグジュペリの王子様のように。
人生を深く生きた人ほど、いや人生の酸いも甘いも知るようになった人ほど、夕映の美に心打たれる。
幸せすぎる人は夕陽なんて眺めても共感する要素を見つけられないのかもしれない。
その代わりに、燃え上がるような真昼の太陽の雄々しさに勇気づけられるのかもしれない。
夕陽は、一日の終わりに暮れて行く陽の最後の輝きで、沈んでしまう陽は死や消滅を暗示させる。
人生の儚さを知る人ほど、紅く大地を染め上げる夕陽の雄大さと命の最期に燃え上がる炎のような輝きに、自分自身にもいつか訪れるであろう命の終わりを思い起こして感動したり、悲しんたりする。
だから大地を刻々と赤や橙で覆い尽くしてゆく夕陽の美しさに心打たれるのだ。
人生を知れば知るほど、人生にはいつか終わりが訪れるのだろうと悟れば悟るほど、夕映の美しさに動じずにはいられなくなる。
数学的な美
少し話を変えてみようか。
オイラーの定理 Euler’s Identity という、数学史上、最美の数式がある。
わたしはこの数式のあまりの単純さの中に隠された奥深い美に心動かされずにはいられない。
でも数学の美しさを学んだことのない人には、どうでもいい数字と記号の羅列でしかない。
わたしも以前はこの数式の素晴らしさが全く理解できなかった。
理解できるようになったのはこの本を読んでからのことだ。
この場合、美しいは、獲得された人生経験や、生まれ持った感受性という才能や個人的な主観ではなく、数学的理解力の深さによって、何が美しくて何が美しくないのかを理解できるようにならないと分からない。
数学の美は、複雑な概念を限りなく簡潔に言い表すことにある。
コンピュータプログラムでも、処理すべきたくさんのメソッドを出来る限り短くまとめることができると、美しいコードが出来上がる。
オイラーの定理には、数学的に全く特別なジャンルの数が四つ組み合わされている。
まず「e=2.718… 」とはオイラー数 Euler's number ともネイピア数 Napier's constant とも呼ばれる数学定数、自然対数の底。または自然数の階乗の逆数。
今回は数学に関する投稿ではないので、詳細は省略。悪しからず。
高等数学を学んだことがない人には何のことだかわからないのだけれども、数学的に最も重要な定数のひとつ。
次に指数の部分の「i」。
i は虚数という、現実世界には存在し得ない、二乗すると-1になるという数を言い表した記号。
虚数を用いると、解なしの方程式にも解を与えることができるので、極めて実用的で便利な概念。
ときには素数さえも因数分解できてしまう。
π はご存知の通り、円周率という無理数。3.14(1592… )。
永遠に割り切れないけれども、この世で最も大事な定数の一つ。
数学的にかけ離れた概念の対数と虚数と円周率を混ぜ合わせるという荒技を行うことで、このような数式が生まれる。
オイラー数の虚数と円周率の累乗に、整数の中でも最もシンプルな1という数字を加えると、数学的に最も大事な概念であるゼロになるという不思議。
数学的に最も大切な四つの定数、
を組み合わせて作られる美。
数学は難しい概念を単純な数式にできればできるほど、美しい。
だからこの世にオイラーの定義ほどに美しい数式はない。
美しさとは主観的な感情ばかりでできているという通説への合理的な反論にはならないだろうか。
あなたがこの数式を美しいと思えるかどうかはあなたの人生の中の数学的経験次第。
これも主観なのだろうか?
歪められた椅子や靴の絵画
美術の世界でも、美を理解するに前提となる知識や経験が存在する。
直感で美を感じ取る天才的な感性を持たれる方もいるけれども、一般的には、どんなものにどれほどに美学的に感動できるかは、あなたの美術的教養と人生体験を絵画鑑賞の中に投影できるかに左右される。
わたしは長い間、ヴァン・ゴッホの、あまりにも生々しい筆跡の残る、あまりにも独特な作風の絵画を美しいとは思えなかった。
理解できなかった。
ルネサンス期のラファエロのような写実的でプロポーションの整った絵画を最も美しいと思い込んでいたからだ。
だが人生をだいぶ生きるようになって、生きていることに疲れて、世の中はラファエロの聖母のような調和の取れた世界ばかりではないと悟るようになったとき、ヴァン・ゴッホの暗くて歪んだような世界が急に理解できるようになった。
ヴァン・ゴッホの世界観に共感できるだけの人生経験を積んだおかげなのだ。
西洋古典音楽も数学の美に通じるのか?
西洋クラシック音楽という長い中世キリスト教文化の歴史の中で育まれて培われてきた音楽もまた、数学に似ている。
音楽的な美しさを深く体感できるようになるには、人生経験の深さや音楽的趣味の良さを育てる教養が必要になってくる。
大衆音楽の多くは、メロディやハーモニー要素よりも単純で原始的なリズム要素を強調することで音楽性を主張する。
音楽は音の運動なので、音楽的感動にはビート感覚のようなスポーツ的な躍動への共感も含まれるのは事実だけれども、音楽とはそれだけではない。
数学のように、世の中には物事の良さを理解するには勉強しないと分からない音楽的な美しさというものは間違いなく存在する。
数百年の伝統を誇る西洋古典音楽の中でも最美の作品のひとつとされる、ヨハン・セバスチャン・バッハの「ゴルトベルク変奏曲」の美は、三という数字に基づいているとわたしは先に論じた。
三はキリスト教という宗教の核となる神学理念の三位一体の三。
西洋音楽は三という概念をあまりに特別視するあまりに、三拍子以外の偶数の二拍子や四拍子を歪であるとする伝統があったのだと説明した。
三が特別なのは、キリスト教という極めて特殊な宗教の都合でしかないけれども、心臓の鼓動は音楽の二拍に似ているから、全ての文化圏で普遍的なリズムらしい偶数拍ではない三拍子は、全ての人類にとって、ずれた拍子なので、とても楽しいリズムなのだという。
やはりゴルトベルク変奏曲の三尽くめは、音楽的にも楽譜上における視覚面でも、きわめて美しいとわたしは思う。
あるメロディを完璧にコピペして遅れて登場させるカノンを美しいと思えるかどうかは、楽譜を見る人の感性次第かも知れない。
だけれども、幾何学美を鑑賞する能力を持つ人は、やはりカノンとして複製された音符が投影する楽譜を美しいと思わずにはいられないことだろう。
そんな一見、人工的であまりに数学的に理詰めな音楽なのだが、奏でられると極めて小気味良い、調和に満ちた音楽として耳に届くのだ。
規律に沿って見事に統率された音符の動きを美しいと感じられるか、あなたの耳が理解できない音響であると捉えるのかは、あなたの音楽的教養次第。
オイラーの定理のようなもの。
ある特定の音楽の「美しい」を美しいと知覚するかしないかは個人的な好みの問題とも言えるかも知れないけれども、やはり人生経験と教養が決定的にものをいうとわたしは信じている。
勉強したり、人生経験を深めると、たくさんの美しいがわかるようになる。
新しい美しさを知ると、世界は大きく広がってゆくのだ。
人間の脳は美しいものを知覚すると喜ぶ。
我が庭に咲く、可憐な白いアネモネを、若い頃の自分は特別に美しいと思うことはなかっただろうと思う。
花を見ても、花を女の子にあげると彼女は喜ぶだろうなどの打算的な目的でしか、色鮮やかな花の価値を認めはしなかっただろう。
自分にはあの頃、本当にはあの花の価値は理解できはしなかった。
質素だが健気に咲く野の花を見ても、目の中に入ってくる風景の一部でしかなくて、心には特に留めもしなかった。
人生の半ばほどまで生きてみて、ようやく本当の美しいが理解できるようになったのかも知れない。
数学的教養や音楽的教養もまた個人の主観の一部なのでは、という頑固な主張を退けるに私の主張は完全なものではないかもしれないけれども、美しいを心から理解したいと思うならば、学ばねばならない。
高度な知性がないと理解されない美を、生まれつきの知性と感性だけで体感できるのごく一部の特殊な人たちだけだ。
また、若かった頃に美しいと思えたことがもう美しいと思えなくなることもあるだろう。
何かを学ぶことで、経験することで、以前美しいと思っていたものも色褪せてしまうこともあるだろう。
美は世界を救う?
わたしの大好きな小説家に、昭和時代中期から後半に主に活躍した辻邦夫 (1925-1999) というフランス文学を専門とした高踏小説の作家がいる。
わたしは辻邦夫ほどに美しい日本語の文章を書く作家を知らない。
辻邦夫は、心をいつまでも揺り動かす永遠の美を求める人物を主人公とした物語を、とても美しい日本語の言葉で紡いだ。
美しい文体で語られたのは、歴史的人物の本阿弥光悦や織田信長や、イタリア・ルネサンスの画家ボッティチェリや古代ローマ末期の哲人皇帝ユリアヌス、または無名の画家や詩人や放浪者たち。
世の中には人が信じるべき美しい原理が存在しているはずだと信じて生きていた人たちばかりだ。
「美は世界を救う」というドストエフスキーの言葉を「美はわたしを救う」に置き換えた物語と言えるだろうか。
美は世界全体を救えないかも知れないけれども、人生に意味を与えてくれる美を信じるわたしに生きる意義を与えてくれるという信念。
光刺すギリシアのパルテノン神殿の神々しい美しさを目にして、世界には永遠の美が存在して、その美を信じることができるならば、我々は生きて行くことができると辻邦夫は書いた。
哲学者カントの定義した「真善美」の中で、真実も善悪も相対的なものだとすれば、美しいものだけが人生において絶対的で信じられるという人生態度だ。
美しいを知ることで人生は不公平で不幸であると思っている人は救われるかも知れない。
美は人生の苦境において我々を救い出してくれる可能性を秘めている。
自分が心から信じる美しいは自分にとって絶対的なものだ。
殺風景な部屋に花を一輪、飾る。
場の空気は一変する。索莫とした世界は雲散霧消する。
美とはそういうものだ。
何を美しいと見做すかは人それぞれかも知れないが、美しいとは個人的な主観でしかないのか、という問いが解決されることはない。
美しいは好きであるということか?
アニメの絵柄、例えばアンパンマンがプリントされた安っぽいプラスチック製のコップを手にすると、幼児は嬉々としてはしゃぎだす。
子供の目にはこのコップはとても美しいのだろう。
やなせたかしは幼児を喜ばせることに深く通じた稀有なアーティストだった。
これほどに子供の心を捉えるデザインとキャラを生み出した人はかつていなかった。
アンパンマンの描かれたコップを手にした幼児の喜びはとどまることを知らない。
アンパンマン大好き!
しかしだ、アンパンマンはそれほどに美しいのだろうか。
好きであると美しいは何か次元の違うものだと思うが、わたしにはいまもなお、明確な違いがわからない。
しかしながら、我が庭の隅に咲く、艶やかな赤でも紫でもない、純白のアネモネを美しいと愛でることができる自分は幸せだ。
わたしは特にアネモネの花がすきでもないのだけれども、秋枯れの庭の白いアネモネを美しいと思わずにはいられない。
白い花を見て、美しいなと頬が緩む。
この世界のたくさんのものを美しいと思える人は幸いだ。
そんな人たちがたくさん暮らして行けるであろう世界は美しい。
そんな世界をいつまでも希求していたいと願う人がたくさんいるならば、世界もまた美しくなることだろう。
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