ボローニャでボロネーゼ🍝たぐりあてっれ・こん・らぐぅ・あっら・ぼろねーぜ。
《赤い街》と呼ばれるボローニャではなく、ペルージャの赤茶けた大地に降りたったニッポンのファンタジスタ・中田英寿が、1998年7月24日、ルチアーノ・ガウチ会長同席の入団会見で披露した流暢なイタリア語は、ciaoとbuon giorno(こんにちは)とbuono(美味しい)の三語しか知らなかった僕の、度肝を抜いた。
「エっ⁈ナカタ..エエ語ぢゃナカったと⁉︎」
隣でシチリアの真っ赤なトマトの様に熟した笑顔と欲望をギラつかせる名物オーナーとマスコミとパパラッチと、小さな街の熱狂的なサポーターに向けて、粋なオーバーヘッドキックでも喰らわすかの様に放った《NAKATA》の名刺代わりの洒落たパフォーマンス。あの一撃には、脳天杭打ち喰らった鮮烈な記憶が残る。そんな彼が、後に→ASローマ→パルマに次いで席巻した赤いピッチが、ボローニャである。
お子さまランチが定番だった頃、母がケチャップ多めで甘く煮詰めて作ってくれるミートソースが大好物で、なのに誕生日だからと、田舎の小洒落たイタリア料理店にオシャレさせられ連行されたあげくに、本格的なボロネーゼなど出て来た記念日には、こどもの口にさっぱり合わず、内心ガッカリした記憶も蘇る。上京後は、都会の悪友にそそのかされ、悪魔のようなラードドロドロ・ニンニクマシマシのラーメン二郎がヤミツキになってしまったが、ガキの時分には、もっぱら、母の作るケチャップマシマシのスウィートなスパゲティミートソースの虜だった。マンマミーア⭐︎
ヴェネツィアやローマ、ミラノ、ピサの斜塔などが日本人観光客の一般的な旅先であろうが、僕はいつしか、もしもイタリアに縁あらば「ボローニャでボロネーゼを食べれますように、アー麺」と願うレアなジャポネーゼにも成っていた。
寝床の在るチェコのプラハから、ヴェネツィアまでライアン航空で3500円くらいで飛んで、ヴェニスのあきんどの海にホトホト飽きた頃、波止場の商人に騙される前に、3500円くらいのFLIXバスに乗ってボローニャに移動し、赤赤と美しく広島のように小ぢんまりと纏まったボローニャの街を、2泊3日のんびり歩き廻り、一皿3500円くらいの予算で本場のボロネーゼとやらを堪能し、また3500円くらいの飛行機で寝ぐらに舞い戻る旅程を組んだ。結果、ホテル代だけは3500円の数倍散財したけれど、肝心のボロネーゼは、街で一番行列が出来るトラットリア《Osteria dell’Orsa》で申し訳程度に並んで食べても、3500円の半値以下で収まった。
ボローニャのバスターミナルから街の中心・マッジョーレ広場へ向かうプロローグの様なロケーションに、その店は在った。腹が減っては、アートの真髄などズッシリと腑に落ちない。先ずは、お目当てのボロネーゼを喰らった後のお楽しみに、ボローニャ自慢のスクエアをのんびりウロつき、振り返れば、夕映えに染まる赤煉瓦の斜塔に首を傾げる街歩きの順路が、乙に違いない。
筋骨隆々かっこよすぎるネプチューンも、市庁舎もサンペドロニオ大聖堂も、1088年創立と伝わるボローニャ大学の講堂も、あれもこれも、中世からルネサンス期に建てられし建築の美が、ギュッと詰まって広場界隈に佇んでいる。が、その前に立ちはだかるボロネーゼの誘惑に、負けるが勝ちよ、と軒先の列に嬉々として並んだ。
お隣おフランスの煮込み料理『ラグー』を参考に、ボロネーゼのパスタソースは編み出されたと云う。粗挽きの牛ミンチにパンチェッタ(塩漬けした豚バラ肉》や香味野菜を炒め、赤ワインなどでコトコト煮込んだボロネーゼは、ボローニャの富裕層の舌に適う様に幾分お高く留まって煮詰められた。故に?正式名称は《ragů alla Bolognese:ボローニャ風ラグー》などと、まるで伊達藤次郎政宗みたいに繋ぎのミッドフィールダーalla選手が挟まり、高貴に三単語並べられてをるではないか...なぬ〜〜伊太利亜くんだりまで足労した挙げ句に、そなたは拙者如き名も無き足軽の分際が、ぬけぬけと口に出来る馳走では御座らんと申すか⁈
しかし、やがて、そのレシピさえ煮詰められた暁に、シンプルな完成形が平打ちパスタ《tagliatelle》に絡まり、いつしか庶民の胃袋にも収まる気どらない時代の、赤るい街のメインディッシュに躍り出ていた。が、その結果《tagliatelle con ragů alla Bolognese》と更に気品漂う長い名前の一皿になってしまった.....「小ブタ、ヤサイマシ、ニンニクマシマシ、カラめ、アブラ多め」まで言わぬと太刀打ち出来ぬぞ.....
店の片隅に在る一人掛けのキュートなスポットに陣取り、待つこと約15分。キタ〜!写真の様にモッチモチのフェットチーネ、ではなくタグリアテッレとやらに、ボローニャ風ソースがまったりと絡まったシンプルな食のイタリアンアート⭐︎⭐︎⭐︎を、僕は遂に味わった。『料理の鉄人』の常連だった岸朝子大先生の様に「美味しゅうございます。ボーノざます。」と頷き、この街のこの店のこの一皿に辿り着いた悦びに浸った。なんて、ちゃんちゃら嘘で、ジロリアンの極太麺マニアとしては、南海ホークスの緑の野球帽を被ったラーメン二郎・○○店の小太りな元店主を遥々ボローニャまで呼びつけ「な⁈」と唸り合いながら、パスタやベスパやパンチェッタやジローラモやジローブタやナカタ、ピサやピザやピアッツァや、ポルチーニやポリーニやシニョーリや、ルコッタやパンナコッタやあんなこった、などなど話題をゴッタに煮詰めつつ、お下品に三皿くらいガッツキたい気分だった。
「んまい...」こんな日もタマにはあるから、食べたら無くなる儚くせつなく極美味しいものを食べる瞬間さえ、タマにはあるから、人生は楽しいのだろう。ローマは一日にして成らず、あのボロネーゼソースも一日にして成らず、二郎の”ブタ”は辛うじて仕入後一日にして成るそうであるが、あの中田英寿のイタリア語も決して一日にして成り得ない。モディリアーニの裸婦の如き官能的で肉厚なパスタ・タグリアテッレに、ガウチ元会長の如き赤裸々な欲望を腹黒くグツグツ煮詰めて作ったような食欲に濁りしソースを絡みつかせた渾身のペルージャ、ではなくボロネーゼ。そんな美味しいエロスな妄想とパスタを噛みしめ、エエ語で「釣りは要らね〜よ」と強がって店を後にし、赤煉瓦に囲まれたボローニャの街の焼けた石畳を踏みしめた。
500gの二郎を完食した後の、脂とブタと小麦と醤油とヤサイとニンニクにまみれた、あの重たい足取りとは打って変わって、腹八分で悠々と、ニッポンの司令塔も暮らしたロッソ(赤)な斜塔の街を、縦横無尽に歩き廻った。全然苦しぅない。あくる日プラハに帰ったら、拙者もまた淡々とNAKATAの様なストイックな日々の積み重ねを生きよう、と夜の広場からアズーリ(サッカーイタリア代表の愛称)の様に引き締まった肉体美の海神様と満天の星空に誓う足軽であった。