好きで得意なことを仕事にしなかった人の話
中学~高校時代の友人に会って言われた一言。逡巡。言われてみればたしかに、と思う。
ただ、「なんでだっけ?」と考える頭とは裏腹に、わたしの口は「待ってました!」と言わんばかりにするすると動き始めた。ひとしきり話し終えたところで、「なんか、格好いいねえ…」と褒められたから、自己分析結果を残す意味も兼ねて文章にして残してみようと思う。
「好き」と「仕事」の関係に悩んでいる人が、この文章を読むことで、「こういう考え方もあるんだな。へえ」と感じてくれたら、嬉しい。
紙とペンがあればよかった幼少期
まず、わたしは絵を描くことが好きだ。
物心がついた頃には、暇さえあればペンを片手に、ひたすら黙々とお絵かきをしている子供だった。特に経験量の差がない頃から人より描けたので、一種の才能というか、得意分野なのだと思う。
何も遊ぶところのない田舎に住んでいるおばあちゃんは、毎年夏休みにわたしが来る前に、コピー用紙と、鉛筆と、鉛筆削りを用意してわたしをもてなした。
幼稚園のおともだちに「なにか描いて~」と言われれば描いたし、何も言われなくても描いた。外に遊びに行くより、じゆうちょうに絵を描くことが好きだった。
「好きこそものの上手なれ」とはよく言ったもので、こんな調子で絵を描いているともちろん絵は上手くなる。
まあ、今思い返すと、元々上手かったから描いていたのか、描いていたから上手くなったのかはわからない。鶏卵問題だ。ただ、結果として中学生になる頃には、人よりも数段絵が上手い状態だったと言えると思う。
「君が一番上手い」と言われるのに
冒頭の友人の一言。比較されている皆さんには申し訳ないが、素直に嬉しく思う。
少なくとも身近なコミュニティにおいては、ずっと絵は一番上手かったんじゃないかと思う。
消防写生大会は学年唯一の金賞、立派な賞状を貰った。
毎年、自分の作品が市の展覧会か、都の展覧会に出展された。
高校のデッサンで写真を模写したジャック・スパロウが美術の先生にベタ褒めされて、見本として高校に寄贈することになった(別の友人にも「レベチで上手い」と褒められた)。
いつしか、当たり前のように周囲からは「絵の上手い子」という認識をされていた。し、客観的に見て、自分でも「自分は絵が上手い!」と鼻高々になっても良いんじゃないかと思う。
だが、今も昔も、「そう!わたしが(身近なコミュニティ内では)一番上手いのだ!!」という気持ちにどうしてもなれない。絵が一番上手いという事実に関して、喜びが薄い。そこに、自分のアイデンティティを見出せないのだ。
わたしと「絵」の奇妙な関係
絵は、わたしのアイデンティティにならない。だが、絵を描くことはやめられない。
「今から死ぬまで絵を描くの禁止ね」と言われたら、発狂する自信がある。なぜか?
長年描き続けて発見したが、わたしは「感情が揺さぶられたとき、その発露として絵を描く」という習性があるのだ。
昔からそうだ。楽しい思い出を絵に残し、映画や音楽、芸術作品に触れた感動を絵に残し、むしゃくしゃして、つらい気持ちを絵に託す。
感受性豊かな自分が、一人じゃ抱えきれない感情を外に出す方法として、たまたま人よりちょっと才能があった、「絵を描く」という手法が自動的に選択されているんじゃないかと思う。
直近(と言っても2~3年)のイラストを振り返ってみてもわかりやすい。
楽しい思い出を絵(漫画)に残しているパターン
作品への感動を絵にしているパターン
しんどい気持ちを絵に託しているパターン
すべて「自分の気持ちを全部絵にぶち込む!それでスッキリする!」というモチベーションで描かれているので、表情へのこだわりがある。しんどい気持ちを込めているものに関してはなおさらだ。「この人物はわたしの気持ちを代弁してくれるか?表に出せない、ありのままの心を表してくれるか?」を軸に、何度も何度も修正している。そして、大体の場合、線画の時点で目的が達成されているので、色塗りへの頓着がない。なので、色塗りはいつまで経っても下手。
多感な学生時代は感情も毎日ジェットコースターで、来る日も来る日も絵を描いた。ただ、仕事仕事になった今は(プロとして)大きな感情の揺れ動きもなくなり、インプットの時間も減り、絵を描かなくなった…という分析もしている。はたして良いのか悪いのか…。
ざっくりまとめると、絵は好き。描かなきゃ発狂するけど、他人の評価はどうでもいい。
これが、わたしと絵の奇妙な関係である。
「演技」への執着
わたしと「絵」の関係はすっきりした。他人の評価はどうでもいい。
じゃあ、何なら「どうでもよくない」のか?
実はもう一つ、わたしには絵を描くことと並んで人生を形成している「好き」がある。それが、演技だ。
物語のピースとなって没入し、観客と物語を繋げるエンターテイナーとして活躍することが、昔からたまらなく好きなのである。
触れたのは紙とペンの方が早かったが、役者への夢は、絵を描くよりも圧倒的に、鮮烈に、劇的にわたしの心を鷲掴みにした。人生を懸けようと思ったのだ。「どうでもよくない」。まったく、どうでもよくなかった。
以下は、声優の養成所に通い始めた頃のわたしと、母親の会話である。
恐ろしすぎる。
考えられないくらいの熱量と、圧倒的な自信があった。
「○○ちゃんの方が絵上手いね」と言われても「そうかもね~ハハハ」と受け流せるだろうが、「○○ちゃんの方が演技上手いね」と言われたら、「…は?(ピキッ)」となるのだ。というか、なった。
ところがどっこい、ここまで言っておいて面白いことに(自虐)、こんなに熱量と自信があったのに、わたしは結局演技で一番にはなれなかった。
「一番になる」なんていうのは口だけで、常勝人生が育ててきたプライドが邪魔をして、ライバルに勝てない自分を認められなくて、成果もあげられず、逃げ腰のまま、それでも近づいて見えてきた厳しすぎる現実に絶望して、役者をやめた。でも、またあの世界に戻りたくて、シンプルに演劇を楽しめない、クソみたいな世界を変えてやろうと、今あがいている。
演技に向き合っている時間は、とても幸せだった。
この時間そのものが、わたしに幸せをもたらしている、そんな感覚があった。
「好き」を仕事にする、その本当の意味
絵に対する「好き」と、演技に対する「好き」。
幸運なことに、わたしは全く性質の違う「好き」を早い段階で体験し、直感的に、本能的に、演劇の道を志した。そして、夢破れた今も、その選択は間違っていなかったと思う。
改めて、冒頭の友人との会話に立ち返る。
わたしの選択は経験による本能的なものだったので、この会話をもって初めて言語化ができた。貴重な機会を提供してくれた友人に感謝。
ちなみに、
ここで挙げられた「絵の上手い子」の一人は、今、プロのイラストレーターとして活躍している。仕事にしたくらいだから、きっとわたしが演技に対して感じるような熱量を持って、真摯に絵に向き合ってきたんだろう。
結果的に、彼女は今のわたしより圧倒的に世間から絵で評価されている。わたしはそれを、非常に真っ当な結果だと思うし、嬉しく感じるのである。
「好き」を仕事にしろとかするなとか、色々な人がポジショントークをするから、わたしもわたしなりに書いてみた。
今心にある「好き」は、それぞれいったいどういう「好き」なのか?
時間があるときに少し考えてみると面白いと思う。今の仕事がそれにそぐわないなら、仕事を変えるのか、プライベートの時間を使うのか、それは個人で考えてみてほしい。
この文章が、読んでくれた人のキャリアを考える上で何かヒントになれば嬉しいな。
熱量と向上心が持てるテーマを見つけて、人生をあげて取り組めたら結構幸せなんじゃないかなあ!
最後に、せっかくなので今の心境を絵にしたため、この記事を締めくくる。
おわり!
おまけリンク集
▼演劇とわたしについて触れた入社(?)エントリ
▼ちょっと話してみたいな~という方はカジュアル面談という名の雑談も歓迎してます(転職意欲問いません、人生相談とかも歓迎!)
▼どんな会社で働いてるんだ?という方向け採用ドアページ
この記事が参加している募集
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?