現在の日本の硬直化した左派と右派の間違い本質、私的解釈~現在の保守・リベラル配置図~(ゲンロン2020/10/13配信から)

1.ゲンロン2020年10月13日配信の「先崎彰容 × 與那覇潤 2011の震災から2020の疫病へ──「危機」と日本思想」について、個人的感想

2020年10月13日にゲンロンで配信された先崎彰容さん(日本思想史・日本大学教授)と與那覇潤さん(日本近代史・歴史学者)の「2011の震災から2020の疫病へ─「危機」と日本思想」は、大変現在状況理解にとっても示唆に富んで個人的も大変面白かったです‥

この配信の中で與那覇潤さんは、先崎彰容さんが書かれた『NHK100分de名著 吉本隆明『共同幻想論』』NHKオンデマンド)を引き、吉本隆明氏の「国家とは(魅惑的なエロスを含めた)幻想である」の国家観を説明します‥
これは、「国家とは(国民との)契約である」の国家観(丸山眞男氏の啓蒙主義)と対比され、端的に分かりやすい秀逸な説明と思われました‥
いわば、吉本隆明氏の地べたのエロス的な幻想から地続きの国家観と、(丸山眞男氏の啓蒙主義の)人々と国家は契約の関係でしかなく明確に分かれているとの国家観との違いを、端的に対比させた分かりやすい説明だったかと‥
これは、現在の日本の一般の我々が社会と個人がどこか地続きに繋がっている感覚と、左派識者などが社会と個人を明確に分けたがっている主張との対比に繋がり、今に通じる話だとは思われました‥

(※もちろん、吉本隆明氏は『共同幻想論』の中で「<宗教>は<宗教>と<法>とに分裂する…<法>は<法>と政治的な<国家>に分裂する」(「規範論」)とエロス的宗教から離脱して行く法や国家の概念を扱ってますし、丸山眞男氏も日本の儒教や古層に対峙して論を展開していますので、本当は双方共にそう単純ではなく、当然、與那覇さん先崎さんまとめは背後に両者複雑さを前提にした端的さでしょうけれど‥)

あと、先崎さんが、映画『三島由紀夫vs東大全共闘 50年目の真実』(豊島圭介監督)を引き、映画の中で、三島由紀夫氏が日本文化を体現した天皇の関係性に没入したいと、当時の全共闘の東大学生の前で話した事が示されます‥
そして一方、当時の全共闘の東大学生の芥正彦氏が、(秩序ルール人間関係など)あらゆる関係性から脱出したいと、三島由紀夫氏に話した事も対比的に説明されます‥
いわば、三島由紀夫氏の望む天皇への没入と、全共闘東大学生の芥正彦氏の望むあらゆる関係性からの脱出、の対比です‥

しかし先崎さんは、三島由紀夫氏と芥正彦氏が、どちらもぬるま湯の戦後日本を嫌悪している点では一致していると言及します‥
つまりこの2人は、ぬるま湯の戦後日本から脱する為に、没入するか脱出するかの違いでしかないとの指摘です‥

その上で先崎さんは、三島由紀夫氏には江藤淳氏の言う「他者」がいないとの指摘をします‥

先崎さんによると、江藤淳氏の保守主義の骨格とは、「他者」との間にどう折り合いをつけ全く解決ない日々のしんどさに耐える事であり、三島由紀夫氏にはその「他者」がおらず自己の内部から出てない、との指摘です‥
その結果、三島由紀夫氏の行動は、結局はテロか自死に向かうという、自己内部での完結しかないとの話でした‥

(先崎さんはここでは明確に言ってなかったかとですが)
当然、全共闘東大学生だった(あらゆる関係性から脱出(離脱)したい)芥正彦氏も、江藤淳氏の言う「他者」と格闘しておらず、自己完結している点では三島由紀夫氏と表裏一体で同じと言えると思われます‥

もちろんここでの先崎さんの指摘も、(自身と考えの違う様々一般人々を含めた)「他者」と対峙格闘していない、現在の右派左派それぞれの自己完結の話に繋がる、現在性ある話とは思われました‥

(※ご存知の様に、東大全共闘との討論の1年半後に三島由紀夫氏は陸上自衛隊市ヶ谷駐屯地で割腹自決し、一方で、全共闘などによる学生運動は内ゲバや(三島氏との討論から3年弱後の)連合赤軍のあさま山荘事件・山岳ベース事件などで終焉を迎えます‥)

その後に続く加藤典洋氏に関する話も、内容が拡張され、配信全体が凝縮された中身で大変面白く見ました‥

この面白くも深かった先崎彰容さんと與那覇潤さんの議論を、拡張して(個人的な)保守・リベラル配置図で整理した時に、現在の日本の問題が更にクリアになると思われましたので、以下に示してみます‥

2.現在における、日本の左派右派の問題の本質

2-A.現在の保守・リベラル配置図

以前私が分類を提案した現在の保守・リベラル配置図は以下の(図A)の様になると思われます‥
(※以前の図に左派「立憲主義・人権主義」を加えました)

この中から、古層(薄い上下左右の矢印の分類)を除き、右派「リバタリアニズム」、左派「立憲主義・人権主義」(加えて左派「共産主義」「暴力的左派」)、あと保守的な「コミュニタリアニズム」を取り出し現在の配置図にすると、以下の(図B)の様になります‥

現在はグローバリズムの社会です‥
その結果、右下側の<自由秩序に積極的>な右派「リバタリアン」(≒新自由主義者)は、中央の保守的・共同体的な「コミュニタリアニズム」を破壊したいと考えていると思われます‥
右派「リバタリアン」にとって、「コミュニタリアン」(あるいは社会)が歴史的に積み上げて来た共同体的な常識やルールは、自由の障壁であり、出来る限りそれを破壊的に取り除きたいと思っていると思われます‥
よって右派「リバタリアン」の武器でもあるグローバリズムは、世界各地の国々地域で違う特有の歴史共同体ルールを世界共通基準で破壊して行き、「コミュニタリアン」に対して攻撃的に振る舞って来たと思われます‥

一方で、左側の左派「立憲主義・人権主義」は、本来、共同体や歴史文化に<寛容性>を持って接し、個々具体的に個人の権利(人権)が侵されていないかを、他人(「他者」)との人権同士の対立を調整しながら(公共の福祉)、粘り強く解決して行く法理のはずでした‥

ところが、現在の(日本の)左派「立憲主義・人権主義」は寛容性を失い、(自身と違う価値観の「他者」との粘り強い調整ではなく)「立憲主義・人権主義」を正義のお題目にして共同体の人々(「コミュニタリアン」あるいは社会の人々)を上から目線で排他攻撃する言動が目立っています‥
つまり、左派「立憲主義・人権主義」も(「共産主義」の様に)、寛容性を喪失して排他攻撃的に陥っているというのが(図B)の左側の下への矢印です‥

この為に、グローバリズムの現在では、多くの一般人々が属している(と思われる)「コミュニタリアニズム」(共同体主義)は、右派「リバタリアン」と左派「立憲主義・人権主義」の両側から追い詰められる事態になっています‥
その結果、(これは世界的に)コミュニティ共同体の人々は、現在のグローバリズムにうんざりして、ここ数年、古層である価値観に引き篭もろうとして来たと思われます‥

2-B.古層の暴力左派と排外主義

ところで、(図A)から古層を中心に取り出し古層の配置図にすると、以下の(図C)の様になると思われます‥

グローバリズムで右派「リバタリアン」と左派「立憲主義・人権主義」に追い詰められた「コミュニタリアン」の人々は、次第に各国地域それぞれの文化の古層に引き篭もろうと硬化して来たと思われます‥
そこで出会うのが、日本では右側の古層右派「天皇主義」「排外排他主義」であり、左側の古層左派「共産主義」「暴力的左派」です‥

しかしこの古層の右派・左派で厄介なのが、古層右派(「天皇主義」「排外排他主義」)はそれほど「コミュニタリアン」に対して攻撃しないのに、一方で、古層左派(「暴力的左派」)は厳しく「コミュニタリアン」を攻撃するという、それぞれで実は「コミュニタリアン」への対応が違っているという点です‥

古層左派の特に「暴力的左派」は、古層右派の「排外排他主義」による差別言動を批判攻撃しながら、と同時に「コミュニタリアン」も批判攻撃します‥
いわば古層左派による、"冷笑系"レッテルで"差別の傍観者は同罪"という攻撃のやり方です‥

ところで、「コミュニタリアン」が、古層右派「排外排他主義」の差別言動に対して批判がない、などという話は全く間違っている理解だと思われています‥
常識的基盤を持つ「コミュニタリアン」は、古層右派「排外排他主義」による差別言動に対して相当な苦々しさを持っているのが本当の所です‥

しかし、と同時に、あらゆる「他者」と日々格闘している「コミュニタリアン」は、物事を短絡的に単純に見ないのも特徴的です‥
(以前に私的に人々の<秩序><寛容性><離脱>の話をしましたが)
【欲望】があるからこそ逆説的に<秩序>に向かい、そこで身体的【上下関係】にぶち当たり、その上で様々な別の関係性の錯綜の中から<寛容性>が生まれ、なおかつそれをひっくるめた場所からの<離脱>を思う‥
つまり「コミュニタリアン」は、右派(<欲望・秩序>)・保守派(<寛容性>)・左派(<離脱>)の、あらゆる場面を通過していて、グラデーションと重層性を持ち、物事はそんなに単純化出来ない、むしろ重層性こそ人間の本質であり大切な積み重ねだ、と考えていると思われるのです‥

その重層性こそが「他者」との格闘の中で積み重ねられた常識であり、そこを基盤にしている「コミュニタリアン」は、古層左派「暴力的左派」が求める短絡的な差別批判には組出来ません‥
(当然一方で、古層右派「排外排他主義」の差別言動に対して、厳しい批判を持っていたとしても‥)

そして、古層左派「暴力的左派」の側にも問題があります‥
彼らは自身の絶対的な"正義"を全面的に押し出して来る為、人々が持つ<秩序><寛容性><離脱>のグラデーションと重層性を、本質で全く理解出来ていない様に見られています‥
古層左派「暴力的左派」には「他者」の格闘が見えず、(人間や社会等)全てに対して表層的短絡的な言動が目立ち過ぎだと個人的には思われています‥

(※この古層左派「暴力的左派」が、人々が持つ<秩序><寛容性><離脱>のグラデーションと重層性を全く理解出来ていない様に思われるのは、そもそも論として一般人々の常識的コミュニティを破壊したい願望があるのでは‥と個人的には思われています‥
これは例えば、大麻とタバコに対する彼らの態度にも現れていると思われます‥
古層左派「暴力的左派」に考えの近い人の多くは、大麻に寛容なのに、タバコには厳しい態度である印象があります‥
彼らが言うタバコに厳しい理由は、タバコの副流煙に発ガン物質が多く含まれているのが根拠です‥
ところが、大麻はタバコより発ガン物質が「タバコの煙より50-70%多く含んでいる」(横浜市)との指摘もあり、また大麻は副流煙による中毒性も指摘(GIGAZINE15/5/30)されています‥
つまり、もし大麻に寛容であればタバコ(の副流煙)にも寛容でなければ一貫性はないという事です‥
(タバコの副流煙に厳しいなら大麻の副流煙にも厳しくなければおかしい‥)
しかしそうではなく、古層左派「暴力的左派」に考えの近い人の多くの一貫性は、一般社会コミュニティ破壊願望であり、大麻はその破壊の象徴なので積極的に容認され、タバコは一般社会コミュニティ側の話なので厳しく断罪する、と考えれば、その偏向した一貫性は良く理解出来ると思われます‥
この古層左派「暴力的左派」の一般社会コミュニティ破壊願望は、拡張して行けば、カンボジアでの閉鎖的な共産主義社会の建設を目指したポル・ポト派による約170万人の国民大虐殺であり、ソ連のスターリンによる処刑約67万人の大静粛であり、中国の死者40万~2000万人とも言われる文化大革命自国民1万人を殺害したと言われる天安門事件であり、日本の連合赤軍による山岳ベース事件になると思われます‥
もちろんここで問われているのは、「他者」との格闘とそれが積み重ねられた歴史的常識に対する欠如感覚の話です‥)

ところで一方、古層右派「排外排他主義」は先程も触れた様に「コミュニタリアン」をそれほど攻撃はしません‥
なぜなら、古層右派「排外排他主義」は(彼らは「コミュニタリアン」からも偏向し、総体では常識的にも間違っていると思われていても)「コミュニタリアン」と同じその国地域の文化を基盤にしているからです‥
もちろん古層右派「排外排他主義」は、古層左派「暴力的左派」と同様に「他者」との格闘が見えず、(人間や社会等)全てに対して表層的短絡的の考えを持っていて認識そのものが間違いだと思われ、個人的には嫌悪感すらあります‥
しかし古層右派「排外排他主義」は、「コミュニタリアン」を人間無理解の短絡攻撃しないだけ古層左派「暴力的左派」よりましだと、コミュニティに住む多くの人々からは思われていると思われます‥
その結果が2016年のイギリスのEU離脱決定であり、アメリカでのトランプ大統領の出現だったかと‥

現在、グローバリズムで右派「リバタリアン」や(寛容性を失った)左派「立憲主義・人権主義」に痛めつけられた「コミュニタリアン」は、古層へと追い詰められ、そこでも古層左派「暴力的左派」の"冷笑系""傍観者"との短絡的人間観の攻撃にさらされ、古層右派「排外排他主義」を逆に容認する所まで追い詰められているのが現在の流れだと思われます‥

しかしこの状態は個人的には余りに救いがないと思われています‥
その解決には、やはり右派左派の識者それぞれが<寛容性>を取り戻し、一般の人々に対してまず<寛容>的に接する事に踏み出す必要がある、と思われています‥

2-C.人々の望む寛容性ある理想的な保守・リベラル配置図

理想的に人々が望む、<寛容性>ある保守・リベラル配置図は以下の様になると思われます‥

もちろん、コミュニティの一般人々の多くが「コミュニタリアン」に近い感覚を持っているからと言って、全ての人や識者がコミュニティ全てに同調しなければならない訳ではありません‥
なぜなら、コミュニティには、コミュニティ内部の人々も(無意識でも)認識している、改善されなければならない問題も常に起こっているからです‥
そして一般含めて個々人は、それぞれの個人史があり生まれ持った資質があり、それぞれの立ち位置で生きて行くのが許された方が良いに決まっています‥
よって個人的には、全ての人々の存在が認められる事を、究極的には願っています‥

ただ、この事は一方で、全ての人を覆う価値観がないという事でもあります‥
そうすると識者に求められるのは、右派左派それぞれで(「他者」を失い<排他>に陥っている人々を含んだ)自身に近い価値観を[内包]しながら、それ以外の「他者」と格闘し、<寛容性>を身につけて、<秩序>と<離脱>を含めた人間の重層的なグラデーションを深く理解し、不断の環境整備と改善とを、建設的にコミュニティからもなるほどと思われる形で具体提案し(対案を示し)、人々と共同で実行する事だと思われます‥

つまり(図D)に示した、右側の寛容右派「コンサバティズム」と左側の寛容左派「リベラリズム」の構築です‥

「私的、日本学術会議の問題本質」でも書いた様に、特に今の日本の左派は理想に逃げて、日本の構造問題(①超少子高齢化の問題②日本のアメリカ中国との現実的関係)に対峙出来ていないと思われています‥
その間違い原因の一つとして、(「他者」に対しての話でなく)自身好みの「自己内部での完結」を望んでいるからだと、個人的には思われています‥

(※ちなみに、新型コロナ対応に関しては、他者を含めた身近な人を守りたい「コミュニタリアン」、科学的に規制は強化した方がいいと考える左派「立憲主義・人権主義」が、それぞれ共にロックダウンや緊急事態宣言やソーシャルディスタンス・マスクに賛成なので、規制反対派は右派「リバタリアン」などごく少数になるのは必然かと‥
もちろん<秩序><寛容性><離脱>の重層性グラデーションを深層では一般人々の多くは持っているので、一般人々は一方で規制を無くして集まりたいとも考えており、この重層的矛盾こそ重要で、それを短絡理解した自粛警察などにも一方で一般人々からも批判があるのも当然かと‥
要は極論短絡の見方ではない、<秩序><寛容性><離脱>の重層性グラデーションを人々の背後に見る必要があり、それが識者にとって大切な人々に対する<寛容>態度であると、私的には思われています‥)

問題解決の道筋は困難でもこの様に今、ちきんと見えていると思われ、そこから右派左派の識者がどう変わるのか、世界史的にも重要だと個人的には思われています‥
その一助に私的に今回も示した保守・リベラル配置図が利用されれば、こんなに嬉しい事はありません‥

左派右派の識者それぞれが一般人々(コミュニティ)に対する攻撃辞めて「他者」と格闘し、<寛容性>をそれぞれが迂回して身につけ、多くの人が受け入れ可能な具体的解決策の提示がそれぞれの立場から提案される事を、願っています‥
世界が、今の余りに救いがない場所から抜け出せる為に‥

(またもや長文を読んで下さりありがとうございました‥)

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