結論を予め考えずに文章を書くことに対する憧れ
文章っていうのは普通、結論を考えてから書き始めるものだと思う。自分も常にそうしてきたが、だからこそというか、結論を予め考えずに文章を書くことに対する憧れのようなものをずっと持っている。
結論を考えるというのは、なかなか大変なことだ。何でも良いから結論があって、それに向かっていけばいいだけなら簡単だけど、書いてみた起承転結を眺めたら全然気に食わない主張になっていることは結構あって、その場合はもう全部やりなおしになってしまう。こういうことを防ぐために、ぶっつけ本番で文章を書くんではなく箇条書き等で整理してから書くなどの工夫をするが、やり直す量が減るだけのことだから根本解決にはならない。
考えごとのマガジンに書いてあるのは、だいたい結論ありきの内容だ。
こういう記事は、考えごとと言いつつ主張があるので、「結論を予め考えずに」なんてのはただの憧れでそれ以上どうすることもできないと思ってきた。だって、あっちこっち寄り道しながらあーでもないこーでもないと考えて、最初言ったことを打ち消したりしながら、なおかつどこにも辿り着かない議論なんて見ていても仕方がないと思うから。
今も基本は変わっていないので、憧れは憧れのまま持ち続けているんだけども、そーゆーやり方(結論を予め考えずに書く方法)って別に不可能でもないんじゃないかと最近思ってきた。
まず第一に、そーゆーやり方に近いイメージで書かれたものを私は読んだことがあるということ。第二に、Twitterでつぶやいていてそーゆー感覚になったことがあるということ。第三に、人の文章を読む時に、全体の整合性なんて大して気にしてない自分に気づいたということ。
そーゆーやり方に近いイメージで書かれたものというのは、なんだか忘れてしまったが昔の日本人の小説だった。あーでもないこーでもないと考えている様は、たしかに結論だけ欲しい人からしたら邪魔くさいのだが、結論だけ書かれてもよく分からんよってことも確かにあって、あーでもないこーでもないと考え続けたその人がやっと辿り着いた結論というのは、その「あーでもないこーでもない」と考えているまさにその時間によって理解が深まった事柄である。部外者が突然やってきて結論に親近感が湧くものではない。だから、あーでもないこーでもないとやっている様を見ることによって、なるほどと腑に落ちることがあるのだ。ということをその小説で体験した。
二番目の話は、こういうこと。Twitterは、140文字にその主張をまとめなければならない。長い記事で書きたいようなことを綺麗に書くには向いていない反面、ぼやっとしたことをぼやっと書くのに向いている。まず140文字でぼやっとつぶやくと、当然細かいニュアンスを言い切れていないし、ぼやっと書いたために自己ツッコミも生じるので、二番目のツイートで追記をすることになる。それでも合計280文字では足りないから、三番目のツイートをする。この繰り返しで「結論を予め考えずに書く方法」が実現しているように感じた。
三番目は、現代社会は情報に溢れているし現代人は忙しいということに起因する。そのような中で、長い記事を読むには「当たり前ではない主張をしている部分」にポイントを絞ることが有効だ。その主張が正しいかどうかは問題じゃない。たとえ間違っていても、どのような観点からその間違いが発生したのかが分かれば十分役に立つ。その意味で、間違いにせよ正しいにせよ自分の状況と考えの道筋を書くことは重要だ。そう思ったら、全体の整合性なんてどうでも良いとまでは言わないが、核心はそこではないから、あーでもないこーでもないと書いてもいいのではないかと思えてきたのだ。
なるほど、小説なら確かに、結論を決めずに書くことができそうなのは納得がいく。そうではなくて、現実的な何かについて主張をする時に結論を決めずに書くということは、何となく言いたいことがあって書き始めたが、途中から脱線して違うことを言い、最初に言いたかったことを言語化できないまま終わることもあるということだ。それでいいのか?
何か、座談会みたいなのを想像してみることにしよう。複数人いると、座談会のテーマが決まっていても、脱線してから元に戻る展開はよく見るし、それで議論の質が高まっているように感じることも少なくない。これは、違う視点が入るから生じる側面も勿論あるのだろうが、単に話者が言ったことについてニュアンスを確認するためのキャッチボールや、何となく別の関連事項が気になった聞き手の質問を通して話者自身の考えが深まることもあるように思う。要するに一人でも可能なことだ。
ただ、座談会で脱線できるのは戻るべきテーマが決まっているからだ。フリップで小テーマが常に掲示されていたりするのも、迷子になった時にすぐ戻ってこられるようにするためだろう(話者にとっても視聴者にとっても)。それとの類推で言えば、結論を決めずに書くにあたっても、大テーマぐらいは決めておいたほうがいいのかもしれない。
また、テレビのフリップといえば、小テーマが予め決まっているというよりは、話している内容をスタッフが読み取って視聴者に掲示しているようなこともある。書きながらある程度の塊になったところでその小見出しを考え、溜まっていく小見出しを見ながら方向性を考えていくのもアリか。
うん、だからまぁ・・・「最初に言いたかったことを言語化できないまま終わる」くらいは、いいんだろうな。だけども脱線したら大テーマに帰ってくるようにはして、中心線の周辺をフラつきながらそのへんの密度を濃くしていくと。そうすればその記事で結論に辿り着くことができなくても、書いたそのことを材料にしていつかスタートラインよりは進んだところから続きを考えることができるように思う。
言いたいことのボンヤリしたイメージはあるのに、そこに向かってフラフラと歩き始められないというのは要するに、言うべき何かが確かに自分の中にあるという確信がないということだ。確信があれば、プロセスがフラついていてもツッコミどころがあっても別にいい。いつか修正できる。
だから問題はその確信が、記事を書く前に予め得られるかどうかということになる。書けば確信の中身を取り出せそうだから見切り発車しようと思える人もいれば、書くと書いたことに引き擦られて当初のイメージが吹き飛んでしまう人もいるだろう。自分は後者のタイプだから、前者に憧れを抱くのだ。論理の飛躍にも憧れがある。影響力がある文章というのは、必ずしも論理の飛躍がないわけじゃない。飛躍は途中に現れる見切り発車なのだ。あまりにチンタラ進んでいたら、それこそ論点を見失ってしまう。
ところで、「言いたいことのボンヤリしたイメージはある」という状況で、「結論を予め考えずに文章を書く」スタイルに一般的な名前はあるんでしょうか?ご存知の方がいたら教えてください。
ではでは。