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電車で、もし目が見えなかったら。

そう、考えたことはありますか。
眼鏡をかければ、コンタクトを着ければ、健常者として生活が出来る世の中で。何一つ不自由しない便利な世の中で、自分の常識の範囲を超えて考えたことはありますか。

ある日、電車内で…


こないだ、白杖をついてるおじいちゃんを電車で見かけた。最初は声をかけるか戸惑ったが、揺れで転んだら危険だと「すみません、席空いてますが案内しますか?」と声をかけた。すると、かすれた声で「本当ですか。どこですか」と。コロナなので躊躇ったが「すみません、少し腕に触りますね。」と声を掛けて席の方向へ誘導した。
そういえば、端っこに座ってるサラリーマンの男性も声を掛けようか迷っていたことを思いつき、協力してもらえそうだったので、席を移動してもらうことに。隣にポールがあって、自分の位置が分かりやすい方がきっとおじいさんも嬉しいだろう。

「隣に移っていただけますか」
「あ!はい、大丈夫ですよ」
と私と席を譲ってくれたサラリーマン、両者が会釈してとてもスマートなやりとりだった。
私は自分の席を探しに、同じ車両違うブロックの席に向かった。
その間、先程のサラリーマンの男性が
「どちらで降りられますか?」
と尋ねていて、一つ対応の仕方を学ぶことができた。

思い出した昔のトラウマ

高校生のとき、バスに乗っていて白髪混じりのご老人に席を譲ろうと
「よかったら座ってください」
と声を掛けたことがある。
しかし、「私はまだ大丈夫です」と不機嫌そうに断られてしまった。
それを祖母に話したら、「それはひどい言われようだったね」と、慰めてくれたがあの体験は今でも私のトラウマだ。
「この人に席を譲ってあげたい。でも、逆に迷惑がかかるのでは」
と行動するとき、歯止めがかかる。

私は、友人にこの体験のことを話した。
「…と、まあこんなことがあったんだけど、高校の時に言われてから声をかけづらくなったんだよね」
「そっかぁ…でも、おばあちゃんはそんなつもりで言ったんじゃないかもよ。結構キツイ言い方するおばあちゃんもたまにいるじゃん。」
「あー、悪気はなくても、そういう言い方で癖がついちゃってる的な感じ?」
「そうそう。そんな感じ」

なるほど。たしかにそうかもしれない。
私は、その場で譲りたかったら、声を掛けたかったら話しかけてみようとぼんやり考えた。

正義感の個性と想像力

人にはその人なりの正義があると思う。
それが必ずしも良い、悪いと決まっているわけじゃない。
私は「譲りたい」と思っても、相手は「ありがた迷惑」と思っていることだってあるだろう。これは違う場面でも当てはまるし、生活の中でしょっちゅう出てくる。

私たちは自然と、自分の正義と他人の中で最大公約数を見つけている。
お互いが生きやすい、暮らしやすい形でいられるのはどんな行動なんだろう?自分の希望と相手の希望の中で一番合う点はどこだろう?

そこには、想像力が必要だと思う。

この人はなぜ怒ってるのか。はたまた、怒ってると自分が思い込んでいるのか。困っていることはないか。自分が出来ることはないか。

人を傷つけたくないから何もしない、それが一番人を傷つけているかもしれない。想像力を養うためには、経験からの学びとニュースを見て事例を知ることが必要なのではないかと思う。

おじいさんに声をかけた電車の中、私が乗り込む前に多くの乗客が座っていた。皆スマホを見ながら、おしゃべりしながら。おじいさんを避けて座りに行く人もいた。
私が声をかけたとき、驚いたのはその人たちの目線だった。
一気に私の方に視線が来た。

「声かけるんだ」
そう車両中の乗客全員に言われているような気がした。

支え合うことが、日常の風景に

社会は複雑に絡み合って、問題が混在している。その解決策を見つけ出すためには、違う分野から発見した気づきが重要かもしれない。

けど、私たちが気付いたことを一つずつやっていく。人への、環境への気遣いを形にしていく。支え合っていくことでより多くの人が暮らしやすい社会になるんじゃないかと、私は信じています。

支え合う、声を掛け合っていく、気遣う

ということが当たり前の社会に。

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