どうして私は生まれてきたのか?/二人の哲学者の考え方。
今回は、子どものころから抱いていた素朴な疑問、『どうして私は生まれてきたのか?』について考えていこうと思います。
1 いつの間にか始まっている私という存在。
ハイデガー(1889~1976/ドイツの哲学者)は、いつのまにか始まっている私が能動的に自らの道を選び取っていく変化について、3つのフェーズを使って説明してくれています。
▶1 被投性
気付いた時にはすでに世界の中に投げ込まれているということ。
▶2 先駆的決意
自分の死が避けられないことを自覚し、自分の道を決めること。
...少し前に就活がブームになりましたよね。
これは自分の死を考えるフォーマットさえも与えてほしいという人のニーズに応えたサービスではないでしょうか?
学校教育を受けて、そのまま労働者になると、自分の死を想定しないまま生きていかれるということですよね。。
▶3 投企
自分で自分を自分の進む道に投げ入れること。このとき人は実存の本来性に目覚める。すなわち死への存在となる。
どうして私が生まれてきたのかは、私が決める。ということですね。
そりゃあ、考えても答えが出ないはずです。。もともと無いんですよ!私が生まれた理由は。
(ハイデガーの考えなので、これが正解かどうかは分かりません。悪しからず。。)
2 そもそも。どうして私の存在を疑問に思うのか?
。。。
それは、生きていることが辛いから。
生まれなければ、こんな辛いこと体験しなくて良かったのに。と考えてしまうから。。
サルトル(1905~1980/フランスの哲学者、文学者)は、人間は自由の刑に処せられていると考えました。
なぜ自由が辛いかと言うと、人間は存在理由(レゾンデートル)がない状態で、いきなり存在が始まるから。
(哲学用語で『存在理由』のことを『レゾンデートル』といいます。こう言うと何だか、格好いいですよねー)
例1▶ ハサミ
ハサミは『切る』ものが必要だということで、『切る』ために適した者として作られました。存在理由があるところにハサミは作られています。
例2▶ 人間
人間は何をするためのものということが最初から決まっておらず、自分で作らないといけません。
存在理由を自分で決めることができる自由が与えられています。
ですが、この自由には不安と責任が伴います。
自分の存在理由を決めることは、偉大な哲学者でさえ苦痛だと感じていたんですね。
それならば、私たちが『何をしたいか』に悩み苦しむのは、人間として当たり前のことだと言えないでしょうか?
【この記事は哲学用語図鑑/田中正人を情報源としています。】
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