それぞれの循環 ~自然界と百姓~
<それぞれの循環 ~自然界と百姓~>
私は決して清貧に対して特別な想いを持っていないが日本の農家にとって節約は勤勉と和合と並ぶ美徳の一つのようだ。それは守るべき暮らし方であり、天道でもあった。そのように説く農書は実に多い。
それが日本人の口癖でもある「もったいない」によく表れている。この言葉にぴったりとくる外国語を私は知らない。むしろ日本のように自然豊かな国ではモノは使い捨てに近い扱いを受ける。
アフリカで長年、植樹活動を実施してきたワンガリ・マータイが「Mottainai」を世界の合言葉にしようと宣言したように、人口が増え続け、地球資源に限り見えてきた現代において、もったいないは世界を救うかもしれない。
日本ほど自然豊かな国でもったいない精神が生まれた背景はおそらく島国であり、江戸時代に鎖国をしていたこととは無関係ではないだろう。百姓は積極的に隣の村や遠く藩と交易を楽しんでいた。縄文時代から日本人はどうやらモノを贈り合うことが好きな民族だったようだが、それでも限界がある。
こういうときもったいない精神はアイデアを生み出す。有効活用されていない土地や資源を見つけ出し、そこから豊かさを生み出す手段を考える。またもう出番を終えたと思われていた資源に目を向け、新たな活用方法を生み出す。もったいないとは決してケチな精神ではなく、実は創造性に溢れた精神である。
百姓によるもったいない精神は循環を途切らせない。どうやら自然界の循環のように巡りに巡って、その都度豊かさをもたらしていたようだ。
江戸時代に入り、開墾にも開拓にも限界が訪れていた農村は田畑を廻すようになった。現在で言うところの輪作である。
奈良盆地では16世紀には水田の裏作にソラマメが植えられていた。農民は田畑輪換農法を編み出したが、ヨーロッパで行われていたクローバーの輪作と通じる。「廻す」という言葉で田畑の転換や作物の交換を表現していた。しかし化成肥料が出回り、表作だけで十分に経営できるようになった高度成長期に消えていく。
農業とはいつの時代も最少限の資源投資によって最大限の収穫を持続的に得るヒトの営みである。近年増えてきた植物工場では植物に光を照らすにはエネルギーコストが必要となるが、太陽光にはお金がかからない。
植物工場の水耕栽培には必要となる肥料成分の循環にはお金がかかるが、土壌の微生物による養分リサイクルの仕組みにはお金がかからない。植物工場では葉物野菜や花卉類に限られるだろう。コメなど穀物生産にはエネルギーの消費しか起きない。
日本農法の根幹である「廻し」。上手に回るかどうかは作物、動物、大地そしてコミュニティメンバーの各々の相性によって決まる。
「いや地」「好き嫌い」とはまさにこの選択肢、選択される間柄のことを指した。この間柄を見極めたものこそがリーダーとなって廻し、豊かさを生み出した。それは天道に従ったものであり、神様のデザインを採用したにすぎなかった。しかし現代では嫌いなものを好きにさせ、無理やり回させようとするのが農業技術のようになってはいないだろうか。肥料や農薬とはその一部に思える。
草木も、鳥獣虫魚、ヒトも同じ生き物として同質でありつつ、草木の下から上へ、鳥獣虫魚の横へ、人間の上から下へ、この違いがあるからこそ滞ることなく回っていくことが可能なのである。土に始まり土に戻っていく。その循環を滞りなく、廻していくのが百姓の術だった。
生き物としてのヒト・鳥獣虫魚、草木の同質性と形態への着目。この日本列島に息づいていた生き物の間にもとづく「作り回し」の循環構造の発見し、それを見事に再現した。江戸時代の農書はこういったリーダーが追い求めた自然界の真実を、後世のために残した農藝の最終到達点だった。
それまでの時代は百姓たちが持つ知恵や技術は口伝しかなかったが、書物と文字は時空間を超え、今私たちの生きる術につながっている。本来なら自然界の循環では書物は虫たちによって分解されてしまうが、そうさせないように保存・管理してきてくれた人たちに感謝したい。
百姓は自ずと循環的で長期的な視点を身につけていった。目先の利益だけを求めて田畑に精を出すことはなかった。ネイティブ・アメリカンのようにいつも趨勢代先のことを考えていた。田畑の作り回しによって数ヶ月後数年後まで豊かさを保つために、「待ち」の姿勢が育まれた。
現在でも手順を考えて段取りをすると言う意味合いで勘弁という。作り回しは「手回し」へとつながっていく。作り回し(輪作)は自ずと決まってくる。手回しは家族労作経営の問題であり、他の部門との兼ね合いでもある。そして世回しは村や地域、世間の問題へと繋がる。農書には必ず家族経営の話から村経営の話まで幅広く説かれているのはそのためだ。自然界とうまくやっていくためには家族とも村コミュニティともうまくやっていく必要があった。
現代農業革命によって、自然の営みで地力が回復するのを待つのではなく、毎年手を加えて耕作できる状態へ変化させた。それによって自然を人為的に改造しようとする考え方が広く普及する。気がつけば現代の農家は自然界の循環について何も知らなくなってしまった。村コミュニティともうまくやれなくなっても引越しをすれば済むようになってしまった。
そもそもヒトという言葉は一から十まで操る存在という意味が古神道にはある。古神道のコトダマの一つであるカズダマ(数霊)では基本の数字である一から十までにもそれぞれ意味がある。
数霊とは数に神秘的で霊的な不思議な力があると考えられ、これを扱うことを算術といって占術に用いられた。
数の力は決して単独に存在し、心の力を超えるものではない。建設的に肯定的に考える心の力で数の力もパワーがみなぎるという。
一二三の祝詞の意味
ひ:陽、日、火、光、霊
ふ:風、降り
み:水、身
よ:世、寄り添い
い:命、出
む:産(むし)
な:永く
や:弥栄(やさか)ますます栄えるという意味
こ:此処に、心
と:止、留まる
つまりヒトとは「ひふみを操り、この世に命を産み出す。その世は永く弥栄に今ここに留まるように工夫する」存在ということだ。
だからこそ、百姓はありとあらゆるものに価値を見出し、それらを工夫して活かそうとする。それは地球資源から人的資源、精神資源すべてにおいてだ。それをうまく廻すことができれば、自然界の循環に乗せることができれば自ずと豊かに幸せになると考えた。
百姓にとって「足るを知る」とは「今あるもので我慢しろ」とか「欲を出すな」といった意味ではない。「今あるものに目を向け、それを磨けば自ずと豊かになる」という意味である。そのために必要な知識や技術を身につけていくのが百姓にとっての修業である。
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