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亥の子と報恩講


<季節行事の農的暮らしと文化 10月 亥の子と報恩講>

コタツのある家や囲炉裏のある家は10月10日亥の日にあける習わしがある。亥の日は秋と冬の境目だった。ただし、旧暦10月10日なので、新暦では少し早いが、北国や豪雪地帯ではこの日に行われることもある。
亥は陰陽五行説では火を司る水の気とされていて、火事が多かった江戸ではこのタイミングで炬燵開きすれば、冬は家事にはならずに済むと言う験担ぎがあった。茶道の世界でもこのタイミングで茶の湯の炉を開いた。

関東では十日夜(とうかんや)、関西では十夜(とうや)と呼ぶ。
長野では田んぼから持ち帰った案山子を祀る日であった。案山子は田の神の依代だった。藁づとを持って土を打って回る風が関東以西にはあった。亥の子の神様は作神様、田の神様であると信じられている。
関西では猪の日の祝いが特に盛んで、十五夜十三夜に続いて月見をする地域もある。亥の子の日には亥の子餅を必ずつくが、餅のつけぬ家では牡丹餅を搗くという。

西日本の瀬戸内地域中心に亥の子つきという行事がある
子供達はイノコと呼ぶワラを縄や葛蔓などで巻いて棒状にしたもので、歌を歌い、土を叩きながら(モグラ打ちでもある)、家々を回る。
すると家々ではミカン、餅などを与えると「繁昌せえ、繁昌せえ」と答えるが、ものを与えないと「貧乏せえ貧乏せえ」という。ときに子供組が道で出会って喧嘩になることもあるという。

また多産であるように亥の子様を祀るものだとも言われている地域がある。子供達が亥の子餅を食べれば健康に育つという験担ぎ。材料は地方によって様々だが、ダイズやアズキ、ササゲ、ゴマ、クリやカキなどこの時期の収穫物がほとんど。また形は猪の子つまり瓜坊に似せる。

最近ではあまり見かけることがなくなってしまった風習だが、江戸時代では子供がお祭りの中心となる貴重な行事だった。

西日本でも亥の子祭りがあまり行われない地域があった。
それhは浄土真宗が色濃く町に浸透している地域で、この時期には宗派でちょうど報恩講が行われるからである。それほど報恩講は大事な祭りであった。

報恩講とは浄土真宗の開祖親鸞の祥月命日に行われる、親鸞を偲び、仏恩に報いるための法会のこと。報恩講料理では郷土料理として「いとこ煮」が振舞われる地域がある。レシピは各地域千差万別だが、親鸞の好物だった小豆を使うことや、根菜や芋などの「似た材料を使うこと」、「硬いものからおいおい(甥甥)入れて、めいめい(姪姪)似ていく」など共通点がある。
宗派によって新暦の10月23日前後、11月23日前後、1月16日前後と違っているのは旧暦、新暦などの違いである。

10月は5月と同様に農耕に関わる行事と祭祀が多く行われる。
菊晴れが多いこの時期、10月17日には伊勢神宮では五穀豊穣に感謝し、その年の最初に取れたコメの初穂を天照大神に奉る神嘗祭が行われる。年間1500回程度もある祭祀の中で最も重要なお祭りとされていて、それに新米が重要な役割を担うということは、日本人のソウルフードがコメであることをよく表している。かつては新嘗祭が終わるまでは新米を食べなかった。まずは神様が召し上がってから。

旧暦9月13日つまり新暦の10月後半にごろに十三夜がある。
十五夜と合わせて二夜の月と呼ばれるくらい大切な月見で日本独自。
このころ収穫される作物にちなんで栗名月や豆名月とも。クリとマメは日本人にとって縄文時代から栽培される重要な作物だ。
十三夜を見ないのは片月見として忌み嫌われたという。

春に山から里へ降りてきた神様を16個の団子でもてなした時と同じように、秋にも16個の団子をお供えして、神様が帰るのを見送る。

神無月にも関わらず、商売繁盛の神様えびす様は留守を預かるということから、10月には福徳を願う行事が行われる地域がある。江戸時代には商家を中心に流行したが、農村部には豊穣を祈る行事としても行われていた。もともとこのえびす講は留守居の神様を慰めるためにはじめたという説もある。このえびす講は現在でも気軽な集まりとして受け継がれている地域がある。

昔から人々が集まるときというのは、いつだって神様とともに作物の喜びがあった。


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