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じゃあ、どうして自然農をしているの?
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<じゃあ、どうして自然農をしているの?>
自然農を教えるとき、私にはどうしようもできないことがある。
最先端の科学的知識から伝統的な知恵まではいくらでも教えられる。植物の個性や自然の摂理、地球の不思議、宇宙の理。幅広く、奥深いこの世界について分かりやすく面白く話すことも体感してもらうこともできる。
やりたくなる気持ち(意志)を引き出すこともできる。知識と経験が結びつき、植物が応えてくれると俄然やる気が出てくる。畑の面白さは知的好奇心を刺激し、清しさは心身を癒し、もっと関わりたいと思ってもらうこともできる。
でも、ひとつだけ、情熱だけは、私にはどうしようもできない。それは一人一人の内側から溢れ出てくるものだから。情熱は頭では導き出せるものではない。情熱は言葉で動かせるものではない。それはどうしようもなく溢れ出てくるもの。岩肌から湧き出すあの美しく澄み切った泉のように、本来は誰にもコントロールできない。
教育現場ではその泉が出てくることを待てずに、いろんな方法で引き出そうとする。叱咤激励や報酬と罰など古今東西、大人たちは子供たちを外的動機付けで無理やり泉を掘り起こしていた。しかし無理やり掘り起こした泉ははじめは勢いよく湧き出てくるが、簡単に枯れてしまう。
しかし情熱は内的動機付けで、自分自身の内側からゆっくり湧き出してくる。はじめはほんの少しばかりだが、簡単に枯れてしまうことはない。
情熱のない人は畑を続けられない。特に自然農のように時間をかけて土作り、種作り、人作りをする必要があるから情熱がなければ何かと理由をつけてやめてしまう。
畑を始めたのに、やめてしまう人は情熱の泉を蘇らせなかった人だ。そんな大人とは違って、子供たちは情熱で動く。大人の心配をよそに、無我夢中で動き回る。ときに危ない目に、痛い目に遭いながらも笑顔を絶やさずに動く。
頭で考える前に、言葉で決めつけてしまう前に身体が動いているのだ。しかし、大人はそれをあらゆる大人の都合で止めてしまう。
その積み重ねによって人は眼の輝きを失う。本来誰にもコントロールできないはずの情熱があらゆるシガラミによって、トラウマによって抑圧されると人は死んだように生きる。
溢れ出てくるはずの情熱を感じられなくなり、エネルギーを失う。情熱を失った人々は身体が病気になるか、精神的に疲弊しきって、はじめてそのことに気がつき、何かを変えようとする。そこで必要なのは薬でもなく、宗教でもなく、メンターでもない。
情熱の泉をもう一度蘇らせることができるのは誰でもない、自分自身だ。泉は枯れきっていない。ちょろちょろと小さいながらも滲み出ていることに気がつくんだ。
その泉を見つけ出し、土砂をかき出し、水を溢れさせることができるのはあなただけだ。大丈夫、情熱の泉は誰にでもある。そんな泉の存在を再発見したとき、人の眼は変わる。
頭も言葉も嘘をつくが、眼だけは嘘をつけない。頭よりも口よりも先に手足が出る。あとから頭が口が、ああだこうだと言って止めようとするが惑わされないでほしい。
情熱に従って生きているときの眼は本当に輝いている。これは人間が意識的に動かせない数少ない筋肉である眼輪筋の動きが、そうさせているのだ。子供が眼を輝かせて夢中で遊んでいる様子を見れば、情熱のエネルギーの力強さを理解できる。
子供は大人になる過程でさまざまな要因によって、その情熱の泉を見失ってしまう。運良くその情熱を見失わなかった大人はまるで子供のように眼を輝かせて生きている。雑草研究部を舞台にしたマンガ「ザッケン!」に出てくる、どぐたみちゃんのように。情熱無くして、自分らしい人生を全うできない。情熱は正義や善とは全く無関係だ。
多くの活動家や事業家が挫折してしまうのも無理はない。正義や善のエネルギーには底があるのだ。そういった強い感情によって生まれたエネルギーは一気に盛り上がり、ほどなくして盛り下がる。急上昇と急降下のエネルギー源だ。
しかし、情熱には底がない。ゆっくり盛り上がり、低飛行ながらも持続し続ける。そしてなかなか盛り下がらない。だから情熱に沿った活動は挫折はない。努力もない。ただ好きだから、面白いから、やってしまうのだ。
自然農の畑とはそういうものだ。
めんどくさいこと、大変なこと、なかなか成果が出ないこと、そんなことが次から次へとやってくる。
寒いなか畑に向かい、暑いなか草を刈り、忙しいなか収穫をし、また寒いなか畑に向かう。そんなことが毎日毎日繰り返される。
それでも、
昆虫が好きすぎて自然農をしてしまう人がいる。
雑草か好きすぎて自然農をしてしまう人がいる。
野菜が好きすぎて自然農をしてしまう人がいる。
鳥が好きすぎて自然農をしてしまう人がいる。
土が好きすぎて自然農をしてしまう人がいる。
タネが好きすぎて自然農をしてしまう人がいる。
あなたの情熱の泉はあなただけしか使えない。
そして、それはあなたが持っているものの中で最深のエネルギー源だ。
「じゃあ、どうして自然農をしているの?」
あなたはどうして畑をするのだろうか?頭で考えるよりも前に、口が動き出すよりも前に、身体が応えている答えがあるはずだ。上手く話せなくていい。説得できなくていい。情熱とはそういうものだから。言葉で表現できなくても、その泉が湧き出ていることに気がついていれば、それで十分だ。情熱に分かりやすいテストや面接はいらない。
その情熱だけは押さえつけてしまってはいけない。十分に発揮してほしい。一生の暮らしにかかわるものこそ、自分とつながる必要があるのは、そういうことだ。だから観察は常に自分自身にも向けられる。
あなたの情熱の泉はどこにある?
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