【読書感想文】『フェンスとバリケード』の向こう側にあるもの
パンデミック前に劇場で見た韓国映画『パラサイト』の一場面を思い出す。
洪水の濁流はより低い場所に流れ込み、まっさきに生活が破壊される。一方、外でどんなに嵐が吹き荒れようと、高台にそびえる豊かな家の中はびくともせず、室内は静寂に包まれている。そこで過ごす者は、どこかで破壊された生活があることには想像が及ばない。
災害や戦争によって生活が破壊された場所は、目に見えない、あるいはあからさまなフェンスやバリケードで囲われ、生活の立て直しは個々の力に乱暴に委ねられる。二度と戻ってこない生活もある。
そこで起こっていることを報じようとしても、メディアが力を失いつつある今、「安全な高台」にいる権力者や、その利権にパラサイトしている人、強い言葉を持った人にかき消される。
足を使って、そこに溶け込んで、リアルな空気感を伝えようというジャーナリストや記者の気概は、なんでもわかったような“つもり”の人からの「高台からの見物」によって冷笑される。
甚大なダメージを受けた者同士で傷つけ合い、本当に責めるべき対象が見失われていく構図が生じることもある。
そんな状況を目の当りにし続けたら、怒り疲れてしまうかもしれない。
「どうせ変わらない」とあきらめてしまうかもしれない。
「権力はペンをつぶす」ことがあり、「粗悪なペンが良質なペンを折ろうとする」状況は、日本に限らず世界規模で起きている。
「ペンは剣より強し」という言葉がただの文字の羅列に成り果てようとしている今、『フェンスとバリケード』(朝日新聞出版)は、怒りとあきらめの「その先」の、「連帯」というほのかな希望を示してくれる本だった。
同著は、異なる理念を持った別々の新聞社に所属する2人の記者の手記が交互に掲載されている。
怒り、あきらめ、やるせなさ……。職務上「客観的であること」を求められる2人の記者が、さまざまな感情をまじえながら主観的に書く。
自分の言葉を持たない為政者に対して、自分の言葉で挑む。
プロとしてさまざまな情報と人に触れ、抑圧移譲をせきとめようとする記者たちの「主観」にもっと寛容でありたい。
「安全な高台」と「フェンスとバリケードの中」の視座は、埋めようもないほどにかけ離れている。
そのかい離を埋めるためには、足と体を使った情報収集にもとづく「良質なペンの力」と「ペンとペンを連帯させた力」と「読み手の共感力」こそが有効であるように思う。
フェンスとバリケード 福島と沖縄 抵抗するジャーナリズムの現場から
三浦 英之 著 / 阿部 岳 著