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深夜空間

Twitterの機能「スペース」をたまに使う。
平日の深夜1時以降、あるいは昼間の変な時間。
一番誰も聴かない時間。

「小池さん、たまにスペースやってますよね。あれはなんですか?」
と質問されることが増えた。

スペースは、友達とワイワイお話したり、タイトルに沿ったことで意見を交わしたり。交流ツールとして利用されることが多い。印象がある。

私の場合は、一人で話し、一人で本の一部を読んで、それでおしまい。
人が入ってきても声を掛けず、モクモクと読み続ける。そこには異様な光景が広がる。

昨年まで、調布FMでラジオ番組をしていた。
ゆるく朗読して、ゆるくお話して、そんな番組だった。
ラジオは誰が聴いているか分からない。
調布周辺にお住まいの方がルーティン的に聴いているかもしれない。
ドライブ中に放送区域に突入した人の車内で、偶然掛かるかもしれない。
宛名のないメッセージボトルを投函する感覚が好きだった。

Twitterのフォロワーが1000人を超えた。
友達、学生時代の同級生、作品を観て知ってくださったお客様、会ったことがない人、もう二度と会えない人。いろんな関係性の人。
いつの間にやら、全ての人に大きな主張をすることを諦めた。
毎日のように文字の無力を目の当たりにする。そのことを事実として受け入れた。
交流を強制することでこぼれ落ちてしまう本音を、尊重したいと思うようになった。

スペースの内容は、その日の体調や読む作品によって変わる。
ボリュームをMAXにしても聴き取れないような日もあるし、作品にチャチャを入れながらハキハキ読む日もある。
15分で終えることもあれば2時間読み続けることもある。
難しい漢字が読めなくて中断して調べては読み調べては読みを繰り返すグダグダな日もある。
でも誰にも迷惑を掛けない、本当さ。

つい最近まで1ヶ月以上前の録音データが消されるようになっていたが、最近は無期限で残るようになったらしい。
とはいえサービスが終了したら全部消えるかもしれない。

Twitterは私にとって地層でありギャラリーだ。
彫り返せば何か出てくるだろうし、縦長の美意識みたいなもんを感じたりする。整頓する美もあるだろうが、私は誰かの世紀の駄作だって残していてほしい。

ひょんなことから私がいなくなったとして、文字と写真に加え肉声が残ることを想像すると、ちょっと愉快になれる。
誰も掘り返さない無縁仏となっていてもそれはそれでいい。

自分の手を離れたところで大いに誤解され、想像されることもコミュニケーションの一部だと思う。

明日の私は私ではない。
それはあなたも同じことだ。
1フレームごとに形も思想も何もかも変わっていい。
変わらなくてもいい。
あなたの身長が突然3メートルになっても、できるだけ私から発見したい。
待ち合わせに片方靴をなくして裸足でやってきたら、予定を全部かなぐり捨てて靴屋へ行こう。

そんな空間にしておきたい。

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