海をあげる
上間陽子『海をあげる』を読んだ。
なんとなくタイトルで気になっていて、本屋で立ち読みして買った。
宮地尚子『傷を愛せるか』を読んだときは、穏やかな漣のうねりがわかる沖合、日差しが強いというわけでもない青空、といった情景が浮かんだ。
今回は、沖縄と聞いて思い浮かぶあの青々とした綺麗な海、
に土砂が投入されて濁る情景が、その波飛沫が足元にやってくるような思いである。
沖縄について、正直何も知らなかったんだなあという気持ちになる。
後書きや、”海をあげる”という章の最後の文章はぜひ実際に読んで、
明確に筆者から受け取ってほしい。
まず、沖縄で湧水や水道水に発がん性物質が含まれていた(2018年、2019年)ことを知らない。高校の修学旅行で沖縄に行ったにもかかわらず、である。これはもうとんでもない。しのびない。何も知らないが過ぎるのではないか、私。
米軍基地の、軍用機の飛ぶとんでもないうるさい音、それに怯える小さい子供、のために水道水を使わず水を買う人たち。背景の、昔は湧水が綺麗で、の話が余計に辛さを誘う。国や政府の理不尽さは、『苦界浄土』に似ているものも感じる。
沖縄の基地問題だけではない。若くして妊娠出産をした子、風俗の子、運動に対してどのような態度でいるべきかという部分、私は考えなくても良い場所にいるんだなあと思う。戦争の話も重苦しい。
私はどこまで何ができるのだろうか、少なくとも、彼らに助言などの愚かしい真似ではなく、
自分のいる範囲でできることをと思うが、それは何なのだろうか。
友人の母親が沖縄のデモに参加していたことを思い出す。
Twitterで揶揄されている活動家の女性が沖縄のデモに参加していたことを思い出す。
京都で行われたフラワーデモを思い出す。
ホストで働く知人、風俗で働く知人を思い出す。
沖縄で戦死した曽祖父を思い出す。
私は、飛行機の音がうるさくない部屋で、電車がたくさん走る京都で、整備された鴨川で、この本を読みながらぼうっと修学旅行で行った沖縄を思い出す。あの海が、この本に出てくる海と同じであることを考える。