とるにたらないものもの
江國香織の『とるにたらないものもの』を読んだ。エッセイ集。
タイトル通り、何かしらの”もの”について江國香織が短文を書いて、それをまとめられている。ルラメイとかいう蝶の標本から砂糖、日がながくなるということ、まで”ものもの”に含まれているので、物質というよりはとにかく名詞、体現ということらしいな という気持ち
ふむふむと読みたい部分もあれば、「だ〜!?!?」という気持ちになってパパパ〜と読み進めてしまう部分もある。やっぱり江國香織は根が明るい。江國香織が小学校の穏やかながら愛おしい生活、トライアングルなんかに言及している時、小学生の私がアリの巣をほじくっていたことを思い出す。
そういう感じで馬が合わない(と言いつつ読み終えているので、嫌よ嫌よも好きのうちなのかもしれない)私と江國香織なわけですが、江國香織が私の好きな安部公房に言及していたのでそれを上で引用した。
江國香織の文章は、わかりやすくて、わかりやすいから、「わかりやすくきれいな物言いをしているな」と思ってしまう。
斜に構えてしまう。ルラメイのあたりの説明で特に感じた。標本みたいな、生き”もの”ではなく生きものの生きるから切り離した”もの”、確かに生きていたのにその生を無視して見た感じの美しさを無邪気に見つめる感じ、が苦手な気がする。どこか上辺っぽいなと思ってしまう。おしゃれな言葉で飾られてるなあ〜と思う。
(おそらく複雑でわかりにくいのが好きなだけの私が駄々を捏ねているだけ、かつ江國香織に詳しくないので浅い見識で物を言っています すみません)
前も述べたかもしれないが、江國香織はかなり幸せな雰囲気で、穏やかな映えるランチみたいな印象がある。私は江國香織と同席してそのランチをいただくわけではなく、あら楽しそうねえと眺める窓の外の人間なわけである……
めちゃくちゃな偏見を言うと、江國香織で受ける印象とは 無印良品の無骨でシンプルな機能性に溢れた白い立方体を愛し、それをきれいな言葉で説明していそう とか あえて量り売りのお店でジャムを買って瓶に詰めるとき、この詰め終わって自分で瓶の蓋を閉めるときの緊張感閉塞感、瓶の透明さによる解放感あけすけさ、に対する詰められた形のないジャムの色、周辺をこれまたきれいな言葉で説明していそう みたいな、なんかそういうあれ
とにかく、同席できないきれいさがあって、私は江國香織の感性とは同居できないと思う
散々言うてるわりにこの本を読んだのは、友人が江國香織のエッセイがだーいすきなのだ
それを認識しているので、私が一人で本屋に行っても江國香織のところを確認する。友人が持っていないエッセイがあるかもしれないから。そんな感じで、本屋で江國香織の『とるにたらないものもの』があったので友人に連絡して、「持ってるよ」とのことで、はあそうか〜。これでやりとりは終わったと思っていたら「貸すよ〜」と差し出された。
(これを迷惑だとは全く思っておらず、むしろ本を差し出されることはとても嬉しい。私が本を読むとき、その動機の半分以上は他人が読んでた・お薦めした・気になっていた 本だからというわけなので、これからも何か良かったものがあれば私の意思を軽率に無視して押し付けてほしい)
『とるにたらないものもの』も私は解説から読んだ。後ろ向きに読むのは本当に良くないし後書きや解説は全て読んだ上で読むことを想定されているから本当に良くないんだけど、もうなんか癖になっている。というか、この本を読んだ上での本に対する好意的な文章なので、これから読むぞ!と言う気持ちが応援される気持ちにもなる。誰かが寄せた文章が好き。先輩に「安部公房ほしい!」と言って譲ってもらった安部公房の『壁』でも、その中で最も好きな文章は序で書かれている石川淳の文章だったりする。何の話?
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