ヘヴン

“「その恋人たちにはね、とてもつらいことがあったのよ。とても悲しいことがあったの、ものすごく。でもね、それをちゃんと乗り越えることができたふたりなんだよね。だからいまふたりは、ふたりにとって最高のしあわせのなかに住むことができているって、こういうわけなの。ふたりが乗り越えてたどりついた、なんでもないように見えるあの部屋がヘヴンなの」”

川上未映子『ヘヴン』講談社文庫 75頁10行


川上未映子の『ヘヴン』を読んだ。

背後世界論とその否定の中で「いじめる・られる」ということの意味や無意味さ、こうであってほしいという欲求が絡み合っていく。

主人公(僕)とその友人コジマはいじめられている。いじめられながらも、コジマはそれに「意味」を見出している。「神」を信じているのだ。なので、コジマはいじめられていても微笑むような、ある種の強さを持っている。僕のいじめられる理由(と、僕は思っていた)の斜視にもコジマは意味を見出し、それが「しるし」となって私たちは出会えたんだよと言う。コジマは僕の斜視を好きだと言った。そんな僕が斜視を治す手術の話をしてから、コジマとは疎遠になってしまう。しかし最終的に理不尽な暴力の中で報われることなんてない、もう一つの世界なんてない、いまここにいる現実という一つの世界で生きていくしかないのだと気づいてしまう。背後世界論が否定されてしまう。

それをきっかけに、主人公はいじめについて親と話し合い、いじめられるきっかけ(と、僕は思っていた)の斜視を治す手術をする。斜視で見る世界は二重で、よくぶつけたり転んだりする。そして、少し見にくい。しかし、斜視を治した後には、並木道の向こう側か見えるくらい綺麗な世界が見えた。僕は、これまでとは違う世界に、確かにもう一つの世界があったと気づく。

しかし、その美しさを、もう一つの世界について伝えられる友人コジマはもうどこにもいない。

二人は、つらいことを乗り越えて「ヘヴン」に辿り着くことはできなかった。


と、いうのが『ヘヴン』のあらましである。

上に引用した「それをちゃんと乗り越えることができたふたり」は、この作中では登場しない。コジマの両親は離婚し、僕の母親は他界して父は再婚している。そして、コジマと僕も言わずもがなである。だからこそ実在しない「ヘヴン」。

そも、「ヘヴン」とは、本当は別の題がある絵に勝手にコジマがつけた題である。本当はどこにもなくて、でもコジマと僕の中にだけ存在していた「ヘヴン」も、背後世界論の否定で消滅する。

背後世界論を信じていた、考えがコジマ寄りだった僕はコジマで自慰はできず、背後世界論の否定を聞いた僕はコジマで自慰をする。つまり、神の実在をそれとなく信じていた、「ヘヴン」を信じていた僕はコジマを何か特殊なものとして捉えていて、神の実在を疑うようになった僕には「ヘヴン」は存在せず、コジマもただの女の子になってしまったということなのか。背後世界論を否定するニヒリスト百瀬に対して良心の話をする僕は、確かに神を信じている男である。


コジマはハサミで何かを、それの特性が奪われないように切ることで標準を思い出していた。僕にとってはそれは自慰にあたる。性的な興奮を覚えて自慰をするのではなく、いてもたってもいられなくなって、する。コジマに僕が髪を切らせた時と、僕がコジマで自慰をしたのは表裏一体だった。違うのは、積極的に差し出したか、勝手に消費したか、だが。
差し出すものから消費するものに変わり、コジマの言う通り僕は強者側に移ろっている。弱者道徳とされた背後世界論から脱却し、まさしく「神は死んだ」世界で生きていく男に変容した。

当然、コジマとの距離は離れていく。しかし、「神は死んだ」世界でもう一つの世界を見つけて、それをただの美しさだったと言う表現になんとも言えない気持ちになる読者は私だけではないはず……


いじめる・られるに意味があるとはなんとも言い難い私だが、かといって意味がないのだと切り捨てることは本人たちのためになるのだろうか?

本人が大事にしている「しるし」「意味」とは、どこまで理解されるべきなのか?できるだけ理解したいが、やはりそれは違うと言いたくもなる。弱者であることを受け入れている子供の被虐者に対して、またはそれを冷笑する加害者の子供に対して、私たち大人はどのような言葉を持っているだろうか。子供たちの考えに応答できるだろうか。

この本の帯に書いてある「何が善で何が悪なのか。誰が強く誰が弱いのか。」という問いに帰ってしまう。



うーんむずい。でもウヲヲンとなる終わり方は好みでもある。
全く思想を書かれていないいじめの主犯格二ノ宮を考えると、やはり僕がいじめられる対象に選ばれたのには意味がないが、二ノ宮がいじめをしてしまうのには意味があるのかなという感じ。0か100かではなく、神のいない世界も、神がいる世界も、どちらも心のどこかにとどめておきたい。

P.S.
百瀬ってドストエフスキー『悪霊』のスタヴローギンみたいじゃね?大審問官を彷彿とさせるね……とか思ったが、この考えは多数派ではないらしい(検索に全く引っかからん。Twitterで調べても一つしかヒットせん)。解釈ミス?もう一度『悪霊』も『ヘヴン』も読み直そうと思う……


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