pray human 崔実
崔実の『pray human』を読んだ。
ネタバレしてます
女たちの物語だった。
閉鎖病棟にてたまたま集まった、精神的に参ってしまった人たち、そこを離れてもなお残るあれそれ。主人公が、「君」にこんなことがあったのだ、と話すように物語は進んでいく。
この小説は、常に話し続けている。語られる話を聞くように読む。この小説では、「話す」「聞く」「沈黙」はとても重要なのだ。
冒頭に引用したのは主人公の言葉だが、主人公は最終的には物書きになっている。どうして物を書いたかと言うと、幼少期の性被害と「話したら殺す」と告げられたことから主人公は「沈黙」するようになり、代わりに物を書くようになった。
主人公はもともと聴力は弱く、そのため言葉を発するのも苦手だった。苦手意識や母親の視線からの重圧でさらに悪化した。
主人公は、書かなければ魂が打ち砕かれるから、ひどく孤独で哀れだから、物を書いた。それを誰にも見られることのないように、ひっそりとしまっておいた。
「話したら殺す」と告げられた性被害について「沈黙」をしていたが、子供の行動には現れた。コンビニの下品な雑誌に卵をを投げつけ、中吊りの下品な広告を引きちぎった。周囲からすれば突拍子もないことだったが、主人公はそうせざるを得なかった。「沈黙」せざるを得なかった事情については後半で明かされるため、前半部分は読み手も主人公の周囲同様、突拍子もないことをする変わった人、と受け取ってしまう。
普通こうだよね、がガラガラと崩れて、まさかね、と思ったことが実際に起きている。当事者は沈黙している。だからその事情について考えなくて良いのだろうか?
周囲で起きた/起きなかった、知っている/知らない、「沈黙」に対して周囲の他者(読み手)は「応答」ができるのだろうか?
この部分はあまりにも教訓的、教科書的、明示的、あからさま過ぎてあからさまだなあと読んでいて思った、子供に言わせるという点でもそう思った。
これが確実に伝えたいことなのだろうなと思う。この部分が作品を貫く軸となっている。
「沈黙」していた主人公は代わりに小説を書いた。
その小説を読んだ閉鎖病棟時代の、散々やり合った仲の病人に話を「聞かせろ」と頼まれ、主人公は「話し」始めた。
主人公の友人は「沈黙」していた代わりに絵を描いて、「沈黙」したまま命を絶った。
色々な事情が深くは語られず、余白部分の多い小説だったが、閉鎖病棟の女子寮で一緒になった女たちが、時に傷つけ合い、支え合い、生きようとする話だった。
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