ホテル カクタス

”ホテル カクタス、というのが、このアパートの名前でした。ホテルではなくアパートなのに、そういう名前なのでした。”

先日友人から借りた江國香織『ホテル カクタス』を読んだ。

失礼ながら、江國香織にはあまり惹かれていなかった。
というのも、江國香織と江國香織が紡ぎ出す文章は確かに生活に息づいた美しさ、繊細と豪華を持ち合わせながらも基本は穏やかさがあるような雰囲気には私は到底馴染めないであろうと思っていたから。
外で楽しそうにはしゃぐ子供の声を家の窓から眺めているような気持ちになる。紡がれている生活を、変わり映えのない自室の窓から見つめる気持ち。私は何も得ずどこにも動かない。そのはしゃぐ子供にまじわることは、ない。

そういった気持ちで読んだ『ホテル カクタス』だが、なにぶん登場する”きゅうり” ”2”  ”帽子”に苦労しなかったといえば嘘になる。突拍子のないあだ名をつける感じかと思っていれば間違いなく”きゅうり”はあの緑色のきゅうりで、”2”は数字の2である。家族もみんな数字で、きゅうりである。帽子なんかも同様であるが、あまり帽子っぽさは感じなかった。それがこの作品に及ぼす効果というものは、果たして私にはわからないままだった。この辺りは色々な人の感想を読んでいきたい。

読み終わって覚えている部分は、「音楽は個人的なものだなあ」というところ。あまり考えたことがなかったけど、確かにその通り。私も関ジャニ∞のアルバムPUZZLEを聞くと、高校3年生の頃が思い出されるし、ピアノ・クラシックを聞くと小中が思い出される。人間は結局音楽からは逃れられない。というより、言葉がまず音で存在していたことを思うと、言葉も音楽もずっと人間にとって個人的なものでありながら、誰かに聞いてもらうこと、共有することを前提としているものなのは確かだろう。
それらを共有しながら、しかし根本の違うところに無理に立ち入らない3人(人なのか?)の関係性はどこか羨ましい。
こいつは帽子だしこいつはきゅうりだしこいつは数字だし、違って当たり前だ、と思えることは、皆人間という意識のもとでは難しく、しかし大事なことである。

最終的にこの『ホテル カクタス』はスーパーが建てられるためになくなってしまう。それでもの3人はまた集まり、ほどほどに楽しむ。一時的な生活をする拠点であったという点で、ホテルと言い表すこともできる。そんなことを言って仕舞えば、今私が住んでいるところも、そんなものなのだが……

そも、カクタスとは?という気持ちで調べてみたが、サボテンの英語と出てきた。あるいは花びらが巻き込んで筒状になっている咲き方のことでもあるらしい。調べているとフロリダカクタスという名前のサボテンが出てきて、この見た目の感じが私にとっての『ホテル カクタス』にしっくりきたので、そのように考えておくことにする。


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