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幸せとは何なのか

最近、幸せとは何なのか考えることがある。

どうしてかというと、現状、僕自身が幸せだと感じるからである。

では、自分にとっての幸せとは具体的にどのような要素が揃えばいいのか、少し書きながら整理してみる。

第1講 幸の語源

言葉は人々によって定義された概念である。そのため、我々はこの世に「幸せ」という実体があるように錯覚するが、それは目に見えないものである。

したがって、幸せ自体を手に入れる(掴みに行く)というよりかは、幸せな状態をじんわりと感じる方に近いのではないかと僕は思っている。

では、実際に当時の人々はどのように「幸せ」を定義し、現在の人々はどのようにそれを編集し使ってきたのか。

まずは漢和辞典とネットサイトを参照し、「幸」の語源を調べてみる。


訓:さいわ-い、さち、しあわ-せ、さきわ-う

なりたち:さからう と土(=若死にする)からなる。若死にからまぬがれる。めでたい。

意味:①運がよい。思いがけないしあわせ。さいわい。さち。②かわいがる。いつくしむ。③天子のおでまし。みゆき。

日本語での用法
≪さち≫:海や山でとれたもの。自然のめぐみ。

                参照:例解新漢和辞典 第五版


中国の字書「説文解字」には、小篆という書体の形を基に「幸」は「屰(ゲキ)」と「夭(ヨウ)」で構成されているとあります。「屰(ゲキ)」は「逆らう」、「夭」は「死ぬこと」です。つまり「幸」は、死ぬことに逆らう=生きながらえることだ、という解釈が成り立ちます。これがよい場合の意味になります。

悪い場合には「不幸」という形で使います。これは「幸にあらず」つまり「死ぬことに逆らえない=生きられないこと」を意味します。「幸」は死を否定し、「不幸」はこれを更に否定する形で成り立っていることになります。

また、手枷の象形という説からは「はめられた枠から逃れようと望む」→「まぐれな幸運を求める」という意味が付加され、ここからかなわぬ願いを得たしあわせ=僥倖を言うのだという解釈もあります。

日本語の「さいわい(ひ)」は「さきはふ」の名詞形で、「さく(咲)」「さかゆ(栄)」「さかる(盛)」と同根だと言います。ここには「生長のはたらきが頂点に達して、外に形を開く」という意味があります。また「しあわせ」は「為合(しあわす)」からきていて「事の次第、巡り合わせ、運命。よい場合にも、悪い場合にも用いる」とあります。


これらから見えてきたものとして、まず幸が「生死」と関わっていることである。そして、若死にすることをまぬがれることが幸であったことから、死というものが人々の身近にあり、当時は若くして亡くなってしまうことが多かったということが推測される。

我々は、普段生きていて、全くと言っていいほど死を意識することはなくなってしまった。死が身近ではなくなり、漫然と生きてしまっている。そこには、生きるということに緊張感や張り合いが失われ、生を当然視してしまっているのではないだろうか。

かつては、生 ↔︎ 死という対立の中で両者のあいだのグラデーションを感じていたのが、現代では死という存在があまりに希薄になってきているような気がする。

僕がそのように感じるのは、健康な人が加齢とともに突然大病を患い、死を実感することで生のありがたみを実感するという話をよく耳にするからである。

では、死を身近に感じるにはどうすればいいのだろうか。自ら進んで大病すればいいのだろうか。いや、それでは逆に不幸になってしまう。

僕がまず思いついたのは、先祖への感謝と弔いがある。具体的な方法には墓参りと仏壇に掌を合わせることがいいのではないだろうか。先祖の前で祈ることで、私と死者の架け橋を作り、いま生きられていることはご先祖様あってのことだと感謝する。墓地や仏壇があるのは、そのような畏敬の念を忘れないようにする意味があるのではないか。

もうひとつは、命あるものの儚さや尊さを感じること。僕がそう思うのには最近、妙に虫や鳥の声が自然と聞こえ始め、花壇の花についた小さなバッタやテントウムシを発見し、生を実感しているからかもしれない。

死を意識するということは、生を意識することでもあり、その逆も然りだと思う。我々人類は他の下等生物よりも知能が高い分、食物連鎖の頂点だと過信してしまいがちだが、バッタやテントウムシのような小さな虫でさえ、とても大きな生の力強さを放っている。逆説的ではあるが、弱さゆえの強さがあるのである。

再び話を幸の語源に戻すと、幸には運という意味も備わっていることが分かる。思ってもいなかったにも関わらず、事が結果的によい方向に進んだというラッキーには喜びがある。あるいは偶然性も関連しているかもしれない。ただし、逆も然りで思わぬ不運に見舞われ、それが悪い方向に進むこともあると予想され、その場合は不幸ということになるのだろう。

また、幸は「さく(咲)」「さかゆ(栄)」「さかる(盛)」と起源が同じであり、「生長のはたらきが頂点に達して、外に形を開く」という力が最大になる(極める)意味合いがありそうである。

キーワード
・生死
・運、偶然性
・力が最大になる(咲く、栄ゆ、盛る)


第2講 幸福の意味から考える

次に、幸福という熟語の意味を調べてみる。


幸福:不安や不満がなく、心が満ち足りていること。
                参照:例解新漢和辞典 第五版

不安:気がかりで落ち着かないこと。心配なこと。
                参照:goo 辞書

不満:もの足りなく、満足しないこと。また、そのさまやそう思う気持ち。
                参照:goo 辞書


まず、不安や不満がないという状況に着目してみると、多かれ少なかれ自分の望んだ願望通りに状況が進展していそうである。

不安というと、今何かのピースが足りておらず、それが将来揃うのか揃わないのかハッキリしないという気がかり、落ち着かない印象がある。また、不満についても不安とニュアンスは似ているが、現状に納得いっていない様子が想像できる。

両者に共通して言えることは、心の状態が関係していることである。心に安らぎ、平安が訪れており、心から納得している状態が不安や不満がないと言えそうである。

例解新漢和辞典 第五版には、後に「心が満ち足りていること」と続くが、要するに幸福とは心がどのような状態にあるかに左右されやすいということなのだと考えられる。

では、心が満ち足りているとは、どういうことか。

満ち足りているという状態を考えた時に、心は常に変化していることを念頭に置く必要がありそうである。

例えば、誰かが自分の悪口を言っているのを思わず聞いてしまったとする。そうすると、その原因が何なのか気に病んでしまう。

「私が何か傷つけるようなことをしてしまったのだろうか?」

「それとも、単に意地悪されているだけ?」のように。

こうなってしまうと、落ち着きはなくなり、気がかりが増え、どんどん心に余裕がなくなってくる。言い換えると、気が本来あるべきところではなく、あちらこちらへ散ってしまう状態になる。

つまり、我々はいとも簡単に外部から影響を受けてしまうのであり、今まであった心の平安は容易に一瞬にして不安に支配されてしまうのである。

このように外部から影響される中で、絶えず心は変化しており、安定と不安定を行ったり来たりしつつ、一定の振れ幅の範囲内に収斂していく。

そして、不安という気がかりが心の器内で小さな存在となり、ある程度の余裕が生まれてくる瞬間。これが心が満ちていると言うのではないだろうか。

ただし、これは不安側からアプローチして導き出した考えに近いと、僕はここで気づいた。では、不満側から考えるとどうなるだろうか。

不満の場合は、何か現状に納得いっていない印象があるのであった。だとするならば、自身が納得できるように高みを目指していき、盛りで咲いて栄えようとする試みや姿勢が心が満ち足りる状態につながるのではないか。

しかし、ここで注意しなければならないのは、納得いっていない事が自身の納得の基準に照らし合わされているかどうかである。

隣の芝生は青いではないが、他人の成功基準と比較して自身が納得していないのであれば、納得までの道のりは極めて難しくなる。あくまで、自分自身がどの高みを目指したいのか基準の輪郭を掴むことが大事なのではないだろうか。

キーワード
・不安や不満がない
・心が満ち足りている
・気が本来あるべきところにある(散らない)


第3講 時間を丁寧に味わう

ここまで幸の語源や幸福の定義からあれこれ考えてきたが、最後に幸せを感じる上で個人的にヒントになりそうなことを書いてみる。

それは、時間をじっくり丁寧に味わうことである。

なぜこのように思ったかというと、物事を習熟していく過程は何でも、速くできるようになっていき、その速さの中で失っているものがあるのではないかと感じたからである。

例えば、歩くという行為は物心ついた頃には自然とできてしまっている事が多いが、普段何の意識もなく、歩く行為に移してしまっている。もっとわかりやすく言うと、本人は歩いていても、その行為中「歩いている!」とは微塵も思っていない。

別の例を挙げると、食事はたいていの人が1日3食食べると思う。ただし、ゆっくり味わって食べられるのは、夕食だけという人が多いのではないだろうか。とにかく、我々には時間がない。物事を楽しむには、じっくりと丁寧な時間をゆっくり過ごす必要があるのではないか。そう思うのである。

ここでは「歩く」と「食事」という二例を挙げたが、両者には意識の度合いに違いがありそうだと気づいた。どういうことか。

「歩く」は「歩いているなあ」とは思いにくいが、どちらかというと「食事」は「食べているなあ」と思いやすい。両者の違いは何なのだろうか。

まず、「歩く」は歩く行為のバリエーション(変化)が極端に少ない気がする。そして、歩くことは目的ではなく手段である。歩いてどこかに行くという事が多い。(趣味としてのウォーキングはここでは除く)

次に、「食事」であるが、毎食メニューが異なるという事に加えて、そのメニューに使われる食材も変わり、食材の切り方扱い方、食材同士の相性や調味料とのハーモニーなど挙げれば無限に変化を楽しめる複雑性がある。また、食事が手段の人もいるだろうが、栄養を摂取したり、旨みを感じたりとそれ自体が目的的である傾向がある。

このように見ていくと、じっくりと丁寧に時間を味わうには、その対象について変化や複雑性があること、手段よりも目的的なことの方が扱いやすい傾向があるのかもしれない。

ただし、だからといって、変化や複雑性のあるものや目的的なことのみ、じっくり丁寧に味わえばいいと言いたいのではない。ここでは、あくまでその傾向があるのではないかと述べただけであり、その対象となりうるのは個人の趣味趣向によると思われる。

重要なことは、見えているものが本当は見えていないのではないかと気づくこと。そして、それに気付いたならば、じっくりと時間をかけて観察することではないだろうか。そのように思う。

キーワード
・じっくり、丁寧
・変化、複雑性
・観察


まとめ

ここまで整理したことから考えると、僕がなぜ幸せを感じているのか、およその理解を得ることができたように思う。

第1講では、生と死について触れたが、僕は正直強烈に自身の死を意識したことはまだない。だが、周りの自然と生命の存在を再認識しているため、そのあたりが影響しているのかもしれない。その一方で、力が最大になる(咲く、栄ゆ、盛る)という感覚は、欠落しているかもしれない。その欠落している感覚というのは、自分の望む仕事ができていないということ、そして、パートナーがいないことに起因している気がする。

第2講では、幸福の意味から考えたが、僕は現状、不安や不満もなく、心が満ち足りているし、気が散る状態ではない。では働いている時はどうだったかと振り返ると、やはり幸せではなかったかもしれない。もちろん、人間である以上、人と人が関わる必要があるため、不安や不満を完全に取り去ることはできないのだと思う。ただ、それにしても、世に存在する仕事というものが、残念ながら不幸の一因になってしまっている場合が多いのではないかと思う。そこをもう少し上手いことできないものか。ここを変えたいという不満は少なからず僕の中にある。

第3講では、時間を丁寧に味わうことについて述べてみた。では、速さに抵抗するには、どうすればいいのだろうか。僕は何となく「所作」というものが重要なのではないかと感じている。例えば、古着屋に行って洋服を見る際に、僕はとても丁寧に扱うようにしている。もう少し詳しくいうと、生まれたばかりの赤ん坊を扱うように、その触れ方に細心の注意を払っている。この行動には店主が苦労の末、買い付けてきたことに対する敬意もあるのだが、この「所作」には人間の全てが滲み出るような気がしているからである。所作が丁寧であれば、自ずと遅さが出てくる。遅くなると、じっくり味わう余裕や時間が生じてくる。外から見られた時の見栄えもよい。

幸せは、所作から始まる。
by Soysauceman, Date 18th September, 2024

このように結論づけて、終わることにする。

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