3.先生
あの日以来、私は母の実家から学校に通っていた。
父とは会っていない。
あの後、父と母の間でどういうやりとりがあったのかはわからないが、母は父に出ていくという話をせずに私と姉を連れて出て行った為、父はかなり驚いたみたいだ。
それはそうだ。夫婦間がうまくいってなかったとはいえ、まさかこんな展開になるとは思っていなかっただろうから。
ちなみに、旦那や妻に出ていくことを言わずに、子供を連れて急に出て行く親の行動を、離婚問題の用語で「連れ去り」と言うようだ。
親子関係ではあるものの、やっている事は「誘拐」として捉えられている。
この行動が子供へ与える精神的苦痛はかなりのものであり、その後の人生に大きく影響すると言われている。
何年も経ってから知った話だが、この家庭状況を学校側が知ったのは、父が学校に電話を入れたからのようだ。
私の親はPTAの役員などもしており、私の性格も明るくて活発な方だった為、周りからはそんな問題がある家庭だと思われていなかったらしく、まさかSowa君の家が!と、先生方はかなり驚いたようだ。
しかも、この状況が職員会議で先生方に伝えられたというのだからびっくりだ。
というか、なんて迷惑な家庭.....。
この話を聞いた時、そういえばあの頃、学校の廊下で会う先生達がやけに私に対して笑顔だったと思った。
当時、離婚による母子家庭は多くなかったと思う。
もちろん私の家庭はまだ離婚はしていなかったが、先生方はとても気を遣って接してくださっていたようだ。
そんな事があり、この頃の私は、毎日最後の授業が終わると、帰りのHRが始まる前に、自分の教室の隣にある空き教室で、担任のT先生と面談をしていた。
このT先生というのがおもしろくていい先生で、怒ると怖い時もあったが、私はT先生が大好きだった。
私だけでなく、みんな好きだったと思う。
ちなみに男の先生だ。
確かあの頃31.2歳だったと思う。
当時の私は、そこまで!?と思うほどの負けず嫌いな性格だった。今も負けず嫌いだとは思うが、この頃ほどではない。
自慢ではないが、1年生からこの時までの3年間、毎年運動会のリレーの選手だった。
リレーの選手は運動会の時期が近づくと、みんなが給食を食べはじめる時間に(だったような)担当の先生の指導のもと、練習をすることになっていた。
リレーの練習が終わると、私はいつも悔しくて泣いていた。
他の子に負けたのが悔しくて、本番でもないただの練習なのに泣いていた。
泣きながら教室に戻ると、それを見たT先生が「どうしたSowaぁ、悔しくてかぁ!?」
と、ハッハッハっと笑いながら声をかけてくれるのが日常だった。
今思うと、かなり恥ずかしい。。。
だが、授業参観の時だったか、T先生が父に
「いやぁ〜、ホントに気持ちのある子で」
と、お褒めの言葉をかけてくださった記憶がある。
そんな事もあってか、私はT先生にかわいがってもらっていた。
T先生はギターが弾ける。
音楽が好きなようで、当時流行っていたアーティストや歌の話もよくしていた。
特にスピッツが好き。
学年の合唱曲も「空も飛べるはず」になったくらいだ。
この曲や「ロビンソン」や「チェリー」を聞くと、今でもあの頃とT先生を思い出す。
面談の時、T先生はいつも今の状況を聞いてくれた。
状況というよりも、気付けば、父と母、どちらと一緒に暮らすかの話になっていた。
子供達の相手をする事に慣れている学校の先生とはいえ、こんな状況の子にどう接したらいいのか、おそらくとても戸惑ったと思う。
でも、T先生は毎回笑顔で会話してくれた。
私はT先生に、母に言ったことと同じように
「僕はお父さんもお母さんもどっちも好きだから選べない」
と話していた。
そして、その後には決まって
「僕は辛くない。世界中には僕よりももっと辛い思いをしている人がいるから、僕は辛くない」
そう話していた。
おいおい、どっから出てきたそんな恥ずかしいセリフ。てかそんなはずないだろ、辛いだろ、と思う。
実はこの「世界中には僕よりも辛い思いをしている人がいる」という言葉。
あの頃、母から言われていた言葉だった。
「世界中にはもっと辛い思いをしている人達がいる。それに比べればお前達は恵まれていて幸せだ」と。
確かに世界中にはそういう人達がたくさんいるのは事実だ。恵まれているというのもわかる。
でもこの状況をつくって子供達に辛い思いをさせている立場なのに、この言葉はないと思う。
こんな呪いのような言葉をかけられてきたことが、私が辛いという気持ちを感じれなくなっていた原因のひとつだと思う。
その言葉を、私はT先生の前で、毎日呪文のように口にしていた。
今、あの時の自分にこう話しかける。
「我慢しなくていいんだよ。辛いね。偉いね。頑張らなくていいんだよ。」
そう言って抱きしめる。
この、子供の頃の自分に話しかける作業は、自分では気づいていなかった幼い頃に無意識に傷ついた気持ち、本当は親や周りの大人にわかってほしかった、聞いてほしかったという気持ちを抱えている自分に、大人になった自分が、その頃の自分の親になって話しかけ、傷を癒していくという作業だ。
大人になった自分は、幼い頃に傷ついていた自分の最強の理解者。
私は何度もこれを繰り返して回復へと向かってきた。
今この文章を打つ事で、あの時自分の中で何が起きていたのかをあらためて認識できた。
あの頃の母の言葉や考えが、そのまま自分の考えになっていた。
幼い頃の親の影響というのはとても大きい。
T先生と話した時には、もうすでにそうなっていたみたいだ。
無意識に。
面談した期間は1週間くらいだったと思う。
でも、父と母どちらと一緒に暮らすか、答えは出なかった。
出なくて当然だ。
家族全員で仲良く一緒に暮らす事が1番に決まっているから。
答えは出なかったが、毎日たまたまその話になっただけで、その為の面談ではなかったと思うし、T先生が他の生徒もいる中で、あの時間を私の為に使ってくれた事に感謝している。
ただ
今だから感じれる感情。
本当はあの時T先生に
「先生、僕つらいよ」
そう言いたかった。
泣きながら伝えて
T先生に
「そうだな、つらいな」
そう言って抱きしめてほしかった。
でも、もちろんそれはもう無理な事。
こういう感情に気付けただけで充分だ。
T先生と過ごした時間は、3年生の時の1年間のみ。
1.2年生の時は隣のクラスの担任だったが、関わる機会があまりなかった。
その後は違う学校に異動になってしまった。
もともと住まいが少し離れたところで、そっちの方の地区に赴任したようだ。
離任式の日だったと思う。
式が終わって教室にいると、中に入ってきたT先生が、クラスメイト全員がいてガヤガヤしている中、真っ先に私のところにやってきた。
そして真剣な顔でこう言った。
「お前、頑張れよ!」
「はい」
「本当に頑張れよ!!」
「はい!」
この時の私にとって「頑張れ」という言葉は重荷になりそうな言葉だ。
でも、T先生の言葉はそう思いたくはない。
本当に心の底から応援してくれていた言葉だったと思うから。
その後、T先生と会ったのは確か2回。
6年生の時に、わざわざ運動会を見に来てくれた。
私はその時、赤組、白組、どちらかかは忘れたが、組の1番上で仕切る役をやっていた。
T先生はサングラスをかけていて、そのサングラスを下にズラして私を見ると
「Sowaぁ〜、頑張ってるなぁ!!」
と笑顔で声をかけてくれた。
私の為だけではなく、みんなの頑張りを見に来てくれたんだと思うけど、それくらい生徒想いの先生だった。
数年間、年賀状のやりとりもしていた。
これも6年生の時だったが、私は当時、小学校の児童会長をしていた。
年賀状の宛先に
Sowa.様
(◯◯小学校児童会長、先生の一番弟子)
と書いてあった。
なんてユーモア溢れる年賀状なんだ。
すごく嬉しかった。
高校3年生の時の年賀状だったと思うが
「連絡ください。成長したSowa君を見てみたいです。080-××××-××××」
と書いてあり、電話してみた。
つながらず留守電にメッセージを入れると、数分経って折り返しの電話がかかってきた。
電話に出ると、T先生は
ハッハッハッと笑っていた。
会う約束をした日。
人混みの中、駅の改札を抜けると、T先生が待っていてくれた。
「そのまんまSowa君、すぐわかったよ」
久しぶり過ぎてなんだか照れ臭かったことを覚えている。
その後、焼肉をごちそうになりながら、いろんなことを話した。
昔の事、今の事。
その時、T先生が言っていた言葉を思い出した。
「人生、偶然だと思っていた事が、実は必然だったりするんだよ」
もし、今の状況が必然だとしたら、こんな辛い必然なんていらないと思う。
でも、先生の言葉はそんな事を思わせる為のものではないと思う。
私にとっての必然。
それは、T先生との出会いだった。
T先生、お元気でしょうか。
今、先生に会いたいです。
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