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荀子 巻第三仲尼篇第七 1 その2

前回は、
孔子門下であれば子供でも五覇を褒めない、何故か?→斉の桓公の悪例提示
そんな斉の桓公が覇者であるのは何故か?→大節があったから
を勉強しました。今回はその続きです。

然らばすなわち仲尼の門にては五尺の豎子じゅしものいいて五伯を称することを羞じたるはこれ何ぞや。

(「荀子」岩波文庫 金谷治訳注)

拙訳です。
『そう(斉の桓公に大節がある)ならば、孔子門下においては小さな子供も五覇を褒めのを羞じるというのは何故か。』

彼れは政教に本づくに非ず、隆高を致すに非ず、文理をきわむるに非ず、人の心を服するに非ず、方略にむかい労佚をつまびらかにし蓄積し脩闘して能く其の敵を顚倒せしものなり。詐心以て勝ちながら彼れは譲を以て争を飾り仁に依りて利をみし者なり、小人の傑なり。彼れ固より曷ぞ大君子の門に称せらるるに足らんや。

(同)

政教→②政治と教育。
隆高→隆高という熟語は無いようです。隆→④たっとい。
文理→①物事のすじめ。条理。
方略→①はかりごと。計略。また、手だて。
労佚→ほねおりと楽しみ。労苦と安逸。
脩闘→脩闘という熟語は無いようです。脩→おさめる。
顚倒→②たおす。また、たおれる。
蹈→ふむ。(エ)まもる。
拙訳です。
『彼桓公は、政治と教育に基づいておらず、尊さを高めることをせず、物事の筋目を極めず、人心を服させるのではなく、労苦と安逸を詳しく調べて計略を練り(詐謀を)蓄積して治めかつ戦い敵を倒したのだ。騙して勝ちながら謙譲を見せて争いの凄惨さを隠し、仁によりかかり利益をまもった者だ。小人の中での傑人だ。どうして大君子である孔子の一門から褒められることがあろうか。』

ここまで読んで、「小人の傑なり。」というのは絶妙な評価だなと感心しています。桓公に対して覇をとなえるにふさわしい大節があると認め「傑なり」と褒め言葉を与えているのですが、その前に「小人の」と冠することで、実は褒めてはいません。五尺の豎子でも称することを羞じるという点を見事に言い表しています。

世の中きれいごとだけでは治まらないということを十分承知していますが、ではどこまできれいじゃない事、汚いことを認めるのか、と考えだすときりがなく、やはりきれいごとだけで治めて欲しいと思います。
特に最近のウクライナ情勢を見ていると、全ての事をきれいごとだけで解決して欲しいと切に思うのです。


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