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荀子 巻第五儒王制篇第九 16 その4
前回は、『三つの事を心にとどめて守るようにすれば天下の人々は服し、乱暴な国の君主も自然と兵を動かすことができなくなる。』まで読みました。続きです。
何となれば則ち彼れには与に[戦陣に]至るべきもの無ければなり。彼れの与に[戦陣に]至る所(可)き者は必ず其の民なり。[然るに]其の民の我れに親しみて歓ぶことは父母の若く、我れを好みて芳しとすること芝蘭の若く、その上を反顧することは則ち灼黥の若く仇讎の若し。彼の人の情性は、傑・跖[の如きもの]と雖も、豈に肯えて其の悪む所の為めに其の好む所を賊する者あらんや。彼れは以に奪わるるなり。
芳→③評判がよい。ほまれ。
芝蘭→②性質・才能・人徳のすぐれた人のたとえ。
反顧→③背をむける。そむく。
情性→人情と性質。性情。心。
賊する→そこなう。害する。
拙訳です。
『なぜなら彼・暴君には共に戦陣に立つ兵士がいないからである。彼・暴君と共に戦陣にあるのは必ず暴君の国の民衆である。しかし暴君の国の民衆はこちらの聖君主に父母に尽くすように親しみ喜び、誉ある人徳の優れた人として好んでいて、自分たちの君主に背を向けることは焼き入れ墨のように恐れ仇敵のように憎んでいる。人の心として、暴君桀・大盗跖のようなものでも、どうして憎む人の為に好む人のことを害することがあろうか。あの暴君はすでに奪われているのだ。』
金谷先生は、最後の訳の後に[軍隊を動かせないのも当然ではないか。]を加えられています。この付加により、前回の最後の箇所『乱暴な国の君主も自然と兵を動かすことができなくなる。』のは、すでに兵となる民衆の心が奪われているからだということを分かりやすくされています。
故に古の人には、一国を以て天下を取る者あるも、往きてこれを行うには非ず。政を其の所に脩めて願われざるは莫く、是くの如くにして暴を誅し悍を禁ず可し。故に周公の南征すれば而ち北国は怨みて曰わく、何ぞ独り来たらざるやと。東征すれば而ち西国は怨みて曰わく、何ぞ独り我れを後にするやと。[然らば則ち]孰れか能く是れと鬭う者あらんや。安ち其の国を以て是れを為す者は王たらん。
拙訳です。
『だから昔の人に、一つの国から天下を取った者があるが、わざわざ天下を回って取ったのではない。自国一国の政治を修めることで他国民からその政治を熱望され、このようにして暴君を成敗し悍君を禁じたのである。だから周公が南征すれば北国の人は何故北国には来てくれないのかと恨み言を言い、東征すれば西国の人はどうして自分たちを後にするのかと恨み言を言う。誰がこのような国と戦うことが出来よう。すなわち自国においてこのようなことを行うものが王なのである。』
自分の国をきんちと治めれば、そのことが伝播されて他国からの衆望が集まり天下に至るという話です。
これは国という大きなものだけでなく、企業に置き換えても言えそうです。きちんと会社運営がされていれば世間の評判となり自社製品が売れるだけでなく優秀な人材も集まってきて、結果益々製品がよくなりと好循環を生み天下を制することが出来そうです。
もっと小さく見れば、自分自身を脩めることで、それが周りの人から好感を得られることになりと好循環につながりそうですね。
国をきちんと治めるには、次の3点が大切でした。
権謀傾覆の人を除けば自然に賢良知聖が集まる。
刑罰・政治を公平にし風習に節度があれば敵国は自然に屈してくる。
農業に務め官民皆が制度を守れば自然に国家は富む。
会社や自分自身をきちんと脩めるには、上記3点を会社用・自分用に置き換えてみる必要があります。今日もあれこれ考えています。