時間は無くなったのではなくてそこにあった。
今子どもは2歳5ヶ月。子育てを始めて、ずーっと、「自分の時間」が無くなった。と、思っていた。
産まれてからしばらくはそれは本当に忙しく、寝る暇もない。出産にとても時間がかかったので、その時の眠れない記憶からずーっと”眠りたい、眠れない”が、強く頭の中に印象付けられているのかも。
先日、元同僚と話していて、「子どもが産まれて、自分の時間が激減したから、本当にやりたいことだけをやろう、とようやく思えたのかも」と私は言った。
そう言ったはいいが、なんとなく、ずっとそのことが気になっていた。本当にそうかな。言葉の上でのつじつま合わせみたいな気がする・・・
そもそも、子どものせいにしているし。
先日も触れた「パパラギ」の、時間のところについて何度か読み直して見た。
愛する兄弟よ。私たちはまだ一度も時間について不平を言ったことはなく、時のくるままに、時を愛して来た。時間を折り畳もうとしたことも、分解してバラバラにしようとしたこともない。時間が苦しみになったこともなければ、悩みになったこともない。
私たちの中に時間がないというものがいたら、前に出るが良い。私たちはだれもが、たくさんの時間を持っている。だれも時間に不満はない。私たちは今持っている。今じゅうぶんに時間を持っている。これ以上に必要とはしていない。
「パパラギ」より引用
この時間についての章は、しばらく私の頭の中にあった。自分は、時間を折りたたんだり、分解しようとしているのではないか、と。
そして、気づいた。「子育ての時間」を、勝手に「自分を犠牲にしている時間」にしているのは自分なんだと。
子どもは、時間を時間のくるままに、過ごしているというのに。
まだ、じゃあ、どうすればいいのか?は、わからない。でも、子育てをしている時間、子どもと過ごす時間は、今まで”一人で自由気ままに過ごして来た時間”とは確かに違うものかもしれないけれど、子どもと過ごす”自分の時間”になっただけなんだと。そしてそれを選んでいるのは、まさに、「自分」なんだと。
そして、今から、シームレスに、時間を過ごしていきたいと思った。
子どものように、子どもと一緒に、無限の時間を無限のままに、過ごすこと。
まだ頭でわかっているだけじゃないのかなとも思う。そうかもしれない。
でも、身体のどこかで、ぱかっと開いた何かがあった。ああ、そうだったんだと。
子どものせいにしたり、自分を犠牲にしたりしない。自分の時間は、いつでもそこにあったし、今もあるし、自分の時間でしかないんだなと。
昨日も今日も、明日も明後日も、楽しいことしかない毎日を過ごそうと、いつかあんなに心に誓ったのに、いつの間にか流されていたんだなあ。。
もし、起きて、ああ、「今日・・・しなくちゃ・・・」と、憂鬱になるなら、それはやらなくてもいいことのような気がする。違うかな。